現代美術と著作権

| | コメント(0)

昨年のアメリカ大統領選挙キャンペーンで使われたバラク・オバマのポスターがAP通信の写真を利用していたことが分かり、ポスターを作成したシェパード・フェアリーに対してAP通信側が権利を主張していた件で、今週、フェアリー側が権利確認の訴訟を起こしたニュースが伝えられています。

美術史を教える大学の教員・研究者として直面する問題の一つに著作権があります。美術作品の授業で画像を見せたり、論文で参考図版として利用したりするとき、著作権が問題になります。また、私の所属する芸術学部は、美術、デザイン、工芸の各分野からなる実技系の学部ですので、教員や学生から、制作や展示に関連して著作権の質問を受けることもあります。

もちろん、授業で美術作品の画像を引用として利用することは許されていますし、学術論文で参考図版を掲載する場合もおおよそ一般的な合意がありますので、問題は少なかろうと思います。しかし、教育や研究を行っていると、どう判断してよいか分かりかねるケースがあります。とりわけ私が関わる現代美術の分野では、著作権のあり方自体を考えさせる作品に出会うこともよくあります。

例えば、創作性(オリジナリティ)とは、著作権法が保護する著作物の条件の一つですが、デュシャン以降、数限りない作家が創作性を問い直す作品を制作しています。アイディアと表現の区別も著作物を考える上で重要な要素です(著作権が発生するのは後者)。アイディアは共有すべきものとされているので著作権が発生しないのに対して、そのアイディアを実現する表現は、さまざまな実現の形態がありえるため、著作権が発生します。しかし、そのアイディアと表現の区別がほぼ意味をなさない作品も数多くあります。2001年のターナー賞を受賞したマーティン・クリードの《作品227 点滅する照明》[展示室の照明が点滅する作品]は、その一例と言ってよいでしょう。

研究においても、著作権の範囲がグレーゾーンになっている印象を受ける場合があります。以前学術論文を書いたときにこんなことがありました。論文の参考図版として、アンディ・ウォーホルの《ゴールド・マリリン・モンロー》(1962年)の図像を利用しようと思って、所蔵先のニューヨーク近代美術館に問い合わせたら、権利を管理しているイタリアの会社に問い合わせるように言われました。そこに問い合わせたらある金額を請求されたのですが、さらにウォーホル財団に問い合わせたほうがいいだろうと言われて問い合わせたら、そこでまたある金額を請求されました。さらに今度はモンロー財団にも問い合わせたほうがいいだろうと言われて、結局利用を諦めてしまいました。よく考えてみると、それぞれの財団の言い分は「別の財団にも権利があるかもしれない」というもので、私もよく分からずにそのまま問い合わせを続けてしまったわけですが、本当に著作権がこのように何重にもかかっているかどうかは分からないことに後で気がつきました。

現代美術の分野では、著作権の及ぶ範囲はますます曖昧になっているように見えます。それは上記のようにある種の混乱や不都合をもたらしているのも事実ですし、そうした事態を受けて、特に音楽の分野では管理の厳密化が進行しているようにも思えます。しかし、そうした混乱や不都合にも拘らず、著作権の不確定性の中に創造の可能性があるようにも思えてなりません。もしフェアリーが既存の写真を用いずにオバマのポスターを制作したとしたら、全く別のものになっていたかもしれません。また、グレーゾーンの中でポスターが制作されたことによって、あのポスターの創作性とは何なのかについても議論が興ってきます。日本の著作権法は、著作権の権利が及ばない対象を、制限規定(「引用」など)として具体的に列挙しているのに対して、アメリカの著作権法は、フェアユース(公正使用)ならば許されるとして、包括的に規定しています。フェアリーの弁護には、フェアユースによる創造的自由の向上を目指すスタンフォード大学のフェアユース・プロジェクトも関わっているようです。何がフェアユースなのかということについて、フェアリーの訴訟をきっかけに議論が興ってくることを楽しみに見ていきたいと思います。

ブロガー

月別アーカイブ