インドの現代美術

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先週末は、藤川さんと同じく私も東京に出張していました。

いくつかの所用の合間に、森美術館で開催されている「チャロー!インディア インド美術の新時代」展を、遅ればせながら見てきました。

インドの現代美術に関する大きな展覧会は、日本では、1998年に国際交流基金アジアセンター(当時)の主催で開催された「インド現代美術展 神話を紡ぐ作家たち」以来で、とても興味深く拝見しました。

私の主な研究分野は、アメリカと日本の現代美術史・美術批評史ですが、昨年秋に国際交流基金主催の国際シンポジウム「Count 10 Before You Say Asia: Asian Art after Postmodernism」に参加して、日本におけるアジアの現代美術の受容に関する発表を行ったことをきっかけに、アジアの現代美術についても強い関心をもつようになりました。

もちろんその前から、ヴェネチア・ビエンナーレなどの国際美術展や他の展覧会で、アジアの作家の作品に触れる機会がしばしばあり、興味をもって見ていましたが、受容史をひと通り調べた後は、研究者としての関心が大きくなりつつあります。

10年前の「インド現代美術展」と今回の「チャロー!インディア」展では、出品作家が1人しか重なっておらず、異なる印象を抱いた人は多かったと思います。その大きな要因の一つは、インドの作家と日本の観客の間で共有できるコンテクスト、とりわけ美術史的コンテクストが増えたことではないかと思いました。

インドの作家たちの作品を見ながら、作家たちが明示的に参照するピカソやデュシャン、アンディ・ウォーホルやシンディー・シャーマンだけでなく、どこまで意識しているか分からないハンス・ハーケ、ソフィー・カル、キキ・スミス、リジア・クラーク、会田誠、ロバート・ワッツ、マルジャン・サトラピなどの作品を想起した人は少なくないと思います。

この類似は、これまで現代美術で行われてきた、引用やアプロプリエーション(及びそこにあるオリジナリティ批判)というよりも、視覚的語彙の共有化の現われのように思います。もちろんこうした事態は、現代美術を含む文化のグローバリゼーションの効果ですが、それは、文化のフラット化をもたらしているというよりも、むしろ、そのことによって、他者の文化との「関わりしろ」(藤浩志さんの言葉)が増えているのではないか、フラット化による複雑化が進行するのではないかと思いました。

アジアの現代美術については、キュレーターの活躍が先行していて、批評や研究は後塵を拝しているのが現状です。中国の現代美術においては批評や研究が進みつつありますが、今回「チャロー!インディア」展を見て、インドの現代美術についても、グローバリゼーションの一つの効果として、批評や研究が成立しやすい状況ができつつある印象を受けました。

ブロガー

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