広島アートプロジェクトについて(2)

| | コメント(0)
前回の「広島アートプロジェクトについて(1)」の続きです。

スミソニアンアメリカ美術館での研究生活を終えて2006年に日本に戻ってきたときに驚いたのは、日本のアートプロジェクトの多さです。もちろん、アメリカにもコミュニティー・アートの歴史がありますし、韓国でもアートプロジェクトが盛んになりつつあります。しかし、全国各地でこれほど多くのアートプロジェクトが行われている国は、世界的に見ても少ないのではないでしょうか。

とは言え、現代美術に慣れ親しんだ人たちの中にも、アートプロジェクトにはそれほど関心をもっていない人はいると思います。玉石混交だという批判的な意見があることは承知しています。たしかに、キュレーター(やディーラー)によるスクリーニングを経た作品が展示される美術館の展覧会と比べると、アートプロジェクトのスクリーンは粗いものかもしれません。

しかし、そのスクリーニングの粗さは、アートプロジェクトの自由度の高さでもあると思います。自由度の高さは、クオリティを低下させる要因にもなりますが、未知なるものに挑戦するチャンスにもなります。後者は、作家が主導するアートプロジェクトにおいて重要になってくるように思います。というのも、そこでは、作家が作家の作品を選ぶわけですから、何を作品とみなすのかについて大胆な判断がしばしば行われ、美術でないものとのギリギリの境界で作品が選び取られることがあるからです。私たちの美術に対する考えを揺さぶるような作品に巡り合うことができるのがアートプロジェクトの魅力の一つなのかもしれません。

アートプロジェクトとは、ローレンス・レッシグの言葉を使えば、アートの「アーキテクチャ」について思考し、それを更新し続ける一つの重要な場なのではないかと私は考えています。アートプロジェクトによって、作品の概念も、鑑賞のあり方も、社会的な役割も、大きく変わりつつあります。アートプロジェクトを、まちづくりの観点(「クリエイティヴ・シティ」も含む)や、いわゆる「オフ・ミュージアム」の文脈で語ることも重要ですが、それと同時に、アーキテクチャとしてのアートプロジェクトについて考える時期が来ているように思います。日本におけるアートプロジェクトに対する関心の高まりが、アートのアーキテクチャに関する議論を活発にしていくことを期待してやみません。

ブロガー

月別アーカイブ