フォーカス

「レオナール・フジタ──私のパリ、私のアトリエ」展 縮小された室内空間で上演されるスペクタクル

小澤京子

2011年09月15日号

肌の絵画/絵画の膚

 本展のもうひとつの勘所は、往時より讃えられていた「素晴らしき乳白色(grand fond blanc)」を科学的に解明した点にある。女や子どもの滑らかな真珠質の肌、柔らかな襞を描いて流れる乳白色のシーツ──質感の手触りすら感じさせるこれらの画肌は、メディウムの複数の層の重なり合いによって生み出されている。麻布でできたカンヴァスにまず膠を塗り、鉛白と乾性油による上層を重ねて地塗りとするのが、通常の油彩画の技法であるが、フジタはさらにタルクの粉を重ねた。タルクは化粧品や医薬品にも使われる珪酸鉱物であり、脂感を帯びたガラス質の光沢を持つ。制作中のフジタを捉えた土門拳の写真──この写真も本展で展示されている──を見ると、フジタはこれを脱脂綿に含ませて画布の上に塗布していたようである。
 タブローは、画布という一種の皮膚と、画家の指、ないしその延長としての筆やパレットナイフといった画材との接触から生み出される。それは化粧とよく似たプロセスであり、また擬似的な肌への愛撫という性質も帯びるであろう。奇しくも第二次大戦後の物資難の時期、フジタは和光堂から販売されていたベビーパウダーを、タルクと亜鉛華をともに含むメディウムとして、地塗り最上層に使用していた可能性が高いという★1。絵画における色彩/絵の具と「化粧」との類似関係を説く言説は、古代ギリシアより存在していた。その多くは、色彩が有する「人の目を欺く」効果を、女性に帰された性質と重ね合わせたうえで、そこに両義的な性質を見出すものであった──このような「ファルマコン」を巡る言説史はともかく、女性の白粉と絵画における絵の具とが文字通りに重なり合う場として、フジタのタブローは存在している。
 「女たちは自らの皮膚を白く塗り、色調の統一をもたらす」と、かつてフランスの詩人テオフィル・ゴーティエは書いた。「このきめ細やかな粉によって、彼女たちはその表層に大理石の薄片を纏わせる」と★2。フジタの描く女性たちは、例えばティツィアーノやルーベンス、クールベらによる、現実の「肉」を生々しく喚起する裸体とも、神経質な線描ゆえに、すべて同一のイデアから生み出されたシミュラークルであるかのようなボッティチェッリのヌードとも、陽気で健康的なエロスに溢れたルノワールの裸婦とも、技巧的な羞恥の身振りゆえに、かえって即物的な劣情を掻き立てるカバネルやブーグローによる女性身体とも異なっている。独特の歪んだデッサンによって構成される裸体、脂肪の薄い一重瞼の酷薄な目付き、そしてどこか生命感の希薄な雰囲気は、フジタが意図的に参照していたかはわからないが、北方ルネサンス絵画に登場する女性たちを連想させる。個性的な顔貌と、触覚的な物質性を感じさせる肌を持ちつつも、彼女たちが漂わせる官能性は、どこか硬質で冷たい。西洋の文学において、女性の白皙の肌は大理石や雪花石膏にしばしば準えられてきた。フジタの描く「白粉を纏った」裸婦たちもまた、このような鉱物質のエロティシズムの系譜に連なるものであろう。

★1──内呂博之「技法の謎を解く鍵──フジタの乳白色をめぐって」(本展展覧会カタログ『Léonard Foujita: mon Paris, mon atelier』収録)。
★2──Théophile Gautier, De la mode, Paris : Poulet-Malassis et De Broise, 1858, p. 33.



制作中のフジタ1947年頃[土門拳撮影、土門拳記念館蔵]

子どもの領分

 その数と描画対象・描画スタイルの特異性の双方で観る者を圧倒するのが、フジタ一流の画風で「子どもたち」を描いたシリーズである。東洋人とも西洋人ともつかない、月足らずの胎児のような相貌の子どもたち。彼らは、大人の庇護欲を掻き立てるような愛くるしい対象としてではなく、むしろ不機嫌でどこか拒絶的な態度を見せる存在として描かれている。徹底して無表情な顔つきからは、内面の感情も思考も読み取ることができない。子どもたちの目鼻立ちはすべて相異なっており、その意味では個性的に描かれているのだが、不思議と一様な外観を有しているようにも見える。フジタは、アトリエに遊びに来る子どもたちをモデルとして描くこともあったという。彼らの顔立ちや表情のユニークさは、一面ではこれらの現実に参照項を持つものであろう。しかしまた、フジタの絵画世界の住人となるに際して、画家の内面に存在する鋳型のようなものの刻印を受けたかのようでもある。
 彼らは大人にとっての「他者」でも、その「未熟な段階」でもなく、自律し完結した世界の支配者として描かれている。例えば《誕生日》では、祝いのテーブルに着いているのはもちろん、水差しを運んで来た召使いもすべて子どもである。緋色のカーテンの掛かる窓の外側からは、奥行き感のない漆黒の闇を背景に、幾人かの子どもたちが眼だけを覗かせている。室内にいる子どもたちは誰一人、窓の外の情景に気付いていない。外部に立つ窃視者・監視者の存在は、この室内空間の自律性や隔絶性、親密さをいっそう高めている。テーブルや床の奇妙に歪んだ遠近法ゆえにどこか非現実的な相貌を帯びるこの室内は、子どもたちの独立王国であるかのようだ。
 子どもたちだけの独立王国という性質は、「小さな職人たち」シリーズにおいて顕著となる。手工業の職人やさまざまな物をひさぐ小売商、植物学者や医者、画家といった専門職にいたるまで、しかつめらしい面持ちで日々の業務に没頭しているのは、まだ幼児といった年齢の子どもたちなのである。それはこの博物図絵めいた職業図鑑に、カリカチュア的なおかしみとメルヒェンめいた非現実性──どのような世過ぎの術であっても、子どもがやれば罪が無く、浮き世の侘しさも感じさせない──を与えている。同時にまた、子どもたちだけの職能集団によって構成される世界は、フジタの造形にしばしば見られる「世界の縮小模型を創り出す願望」の現われでもあるだろう。


左:レオナール・フジタ(藤田嗣治)《椅子職人》1959年 油彩/ファイバーボード
© ADAGP, Paris&SPDA, Tokyo, 2011
右:レオナール・フジタ(藤田嗣治)《風船売り》1959年頃 油彩/ファイバーボード
© ADAGP, Paris&SPDA, Tokyo, 2011