フォーカス

ビエンナーレ物語、そしてイスタンブールとテッサロニキへ

市原研太郎(美術批評)

2011年11月15日号

不在の中心

 では、具体的に、各セクションのグループ展と個展のなかで注目に値する作品を取り上げ、論評していくことにしよう。会場のアントレポ3から。ここには、〈History〉と〈Death by Gun〉のセクションが置かれている。〈History〉では、ローカルな歴史的事実や日常生活を扱ったモティーフが多く、そのため制作年が過去の作品が目立った[図22-25]。これら一見素朴と思われる表現のもつ訴求力は、現代アートがもはや創造できない無垢の強度であり、それが秘める変革への意志は、けっして忘却されてはならないものである。では、無垢を喪失した現代アートが、変革に向けた力を取り戻すにはどうすればよいか。怨念か、陰謀か? ジョナタン・ジ・アンドラージ(Jonathas de Andrade)、リチャード・ディクバス(Richard Dikbas)、タマス・カザス&アニコ・ローラン(Tamas Kazas & Aniko Lorant)の作品[図26-28]が示唆するように、日常生活のささやかな行為や実践が、人間性の回復に向かう重要な契機となる。その積み重ねが現実を変えられるという希望を涵養する。だが、歴史を再検証する地道な努力を怠ってはいけない。そうしないと、有望な変革も、足元を掬われて挫折の憂き目に合うことになるからである。ナスリン・タバタバイ&ババック・アフラシアビ(PAGES)(Nasrin Tabatabai and Babak Afrassiabi[PAGES])の作品[図29]は、そのことをユーモアを交えて仄めかしているように思われる。


22──Elizabeth Catlett
23──Abraham Cruzvillegas


24──Tina Modotti
25──Yildiz Moran Arun


26──Jonathas de Andrade


27──Richard Dikbas


28──Tamas Kazas & Aniko Lorant



29──Nasrin Tabatabai and Babak Afrassiabi (PAGES)

 〈Death by Gun〉は、テーマをリテラルに表現した作品が多いと指摘したが、前述の作品以外にも、Weegeeの殺人現場写真、クリス・バーデン(Chris Burden)のパフォーマンスで被弾した腕の記録、マフィアの殺害の写真などが展示されていた[図30-32]。しかし、これら残酷なシーンが並ぶセクションで、もっともインパクトをもっていたのは、パレスティナ人の住居が、イスラエルによって撤去された後に発見された残骸が、さながら遺品のように置かれたケースである[図33]。〈Death by Gun〉では、〈History〉の希望とは正反対に、絶望に打ちひしがれた生の沈痛な痕跡が見出される。


30──Weegee
31──Chris Burden


32──Letizia Battaglia
33──Edgardo Aragon

 向かいに立つアントレポ5に移ろう。この建物の一階には、〈Abstraction〉のセクションがある。このセクションの見所は、なんといっても抽象とくに幾何学形態の作品に込められた意味である。そのもっとも顕著な例が、抽象的表現の裏に隠された歴史的コンテクストを調べ上げたアレッサンドロ・バルテオ・ヤズベック&メディア・ファージン(Alessandro Balteo Yazbeck & Media Farzin)の作品だろう[図34]。冷戦時代の政治構造が、アートに与えた影響についてさまざまに議論がなされてきたが、アーティストのリサーチした結果が、作品(カルダーの彫刻)と突き合わせて示される。この作品が、今回のビエンナーレでもっとも刺激的だった理由は、アートに影響を及ぼす政治つまり権力関係が、資料とともに視覚化されていたからである。人間の血は、政治的なものという磁石に否応なく引きつけられるのか。そのなかで、正義を貫くことなど本当にできるのだろうか?



34──Alessandro Balteo Yazbeck & Media Farzin

 ここまであからさまに政治や社会の明示的な意味がなくても、暗示的な意味であれば、いくつでも例は見つかる。このセクションのグループ展は、そうした作品で占有されていた。無作為に名前を挙げて意味を探るなら、アルフレッド・プリエト(Alfredo Prieto、丸いスイカを四角く切る行為に、ベッドの寸法に合わせて脚を切断したプロクラステスを重ね合わすことができる)[図35]、セブデト・エレック(Cevdet Erek、モダンアートの公理であるグリッドが、障害物のフェンスになる)[図36]、アドリアナ ヴァレジョン(Adriana Verejao、同じくグリッドを切り裂いて、内側から不気味なものが立ち現われる)[図37]、リヴァーネ・ノイエンシュワンダー(Rivane Neuenschwander、ミニマルな形態のフェンスが、人間の動線を導く)[図38]、サイモン・エバンス(Simon Evans、幾何学形態の同心円状に、びっしりと文字[THE VOICE]が書かれてある)[図39]


35──Alfredo Prieto
36──Cevdet Erek


37──Adriana Verejao
38──Rivane Neuenschwander


39──Simon Evans

 〈Abstraction〉の最後に、二組のルーマニアのアーティストを紹介したい。ヴェネツィア・ビエンナーレのルーマニア・パビリオンも必見だったが、イスタンブールに参加したこの二組も必見である。なぜ、最近東欧のアーティストに注目が集まるだけでなく、高い評価が与えられるのだろうか。そのなかでも、ポーランドと並んでルーマニアに優れたアーティストが多い。ヴェネツィアではイオン・グリゴレスクに言及したが、イスタンブールでは、ゲイト・ブラテスク(Geta Bratescu)とモナ・ヴァタマヌ&フロリン・テュードル(Mana Vatamanu & Florin Tudor)の作品を鑑賞することができた[図40,41]。ところで、両者は作品のジャンルが、テキスタイルとインスタレーションでまったく異なる。ブラテスクは、彼女の母が旧社会主義時代からとってあった布地の切れ端を使ってシンプルに組み合わせ、二人組は、記録用のテープをグリッド状に張り巡らせた。後者の味気ないほどあっさりしたインスタレーションは、それを潜り抜ける労を取らなければ、ほとんど無視されるかもしれない代物である。それが、不思議な魅力を放つ。


40──Geta Bratescu


41──Mana Batamanu & Florin Tudor

 旧社会主義の国々は、政権の崩壊後、EUに加盟することで資本を呼び込み、その恩恵に与った国もあるが、それでも本格的な世界の不況によってなかなか経済成長の波に乗れないでいる。ルーマニアも、そのような国のひとつだ(EUで二番目に貧しい)。ビエンナーレのオープニングに合わせて唯一行なわれた外国の記者会見に出席したが、それがこのルーマニアだった。その会場に足を運び、記者会見を開く理由を尋ねたら、担当者に黒海を隔てて隣国で関係も深いですから、と事もなげに言い返された。その会見でスピーチをしたブカレストのギャラリスト(ブラテスクの作品を扱っている)が、自由主義になってからのほうが、とくに若いアーティストが発表できる公共の空間がなくなったと嘆いていた。資本主義マーケットは、不効率な活動を駆逐する。アートが、真っ先にその標的となる。結果、実力のあるアーティストは、ルーマニア人の出稼ぎ労働者と同じく、海外のアート・マーケットに進出する(グリゴレスクが、その代表例)。ビエンナーレは、グローバル化した現代アートへの登竜門であると同時に、マーケットへの橋渡しの役割を演じ、記者会見は広報のチャンスとなる。だが、私を除いて、10名ほどの出席者はほとんど知り合いのようだった(ちなみに、ベルリンにあるPlan Bというギャラリーは、ルーマニア人アーティストのみの展覧会を行なっている)。
 ルーマニアのアートをめぐる厳しい状況はさておき、ブラテスクの作品は、布地なので物質性が他の素材よりも強いはずだが、その淡くぼんやりした美しい模様と、それを扱う繊細な手つきが、表現を爽やかな存在感で包んでいる。布地という物に依存しながら、まるで空気に触れているような優しげなメロディを奏でるのだ。ヴァタマヌ&テュードルのインスタレーションは、細いテープというチープな工業製品を使って陣地を切り取るゲームのように見える作品だが、理想の分配が等間隔で仕切られた空間によって暗示されると解釈すれば、自由主義になって以後の、パブリックとプライヴェートを絡めた所有の関係を、アイロニカルかつユーモラスに批判している。その点で、見かけとは反対に全然単純ではない作品である。蛇足だが、磁気テープは、ルーマニアでは貴重な品物で盗難に合うこともあるらしい。
 アントレポ5の二階には、〈Ross〉と〈Passport〉のセクションがある。〈Ross〉には、ゴンザレス=トレスがかつて属していたグループ「マテリアル」の活動記録の資料展示があり、他のセクションと比較して、全体的にもっとも人間臭い内容となっていた。〈Ross〉は、ゴンザレス=トレスのパートナーの名前であり、ゴンザレス=トレスの死の5年前に、やはりエイズで亡くなっている。そこからも、このセクションは、プライヴェートな世界として設定されていると推察できる。プライヴェートなものが招いた悲劇は、エイズに限らない。社会におけるパブリックとプライヴェートの関係に由来する問題は、まったく解決されていない。それ以上に、ますますその関係は紛糾している(プライヴェートなもののイメージを形作る作品については、以下の作品を参照されたい[図42-48])。


42──Leonilson


43──Akram Zaatari


44──Ardmore Cermic Art Studio


45──Michael Elmgreen & Ingar Dragset


46──Tammy Rae Carland
47──Collier Schorr


48──Catherine Opie

 もうひとつのセクションである〈Passport〉は、〈Death by Gun〉同様、テーマのリテラルな表現が多いが、このテーマは、越境という重大な問題を含意している[図49]。自発的な欲望からであれ、必要に駆り立てられてであれ、境界を横断する人間は、不法に通過するのでなければ、パスポート(アイデンティティカード)を携行することを義務づけられる。グローバル化した世界で、しかも国家権力が強大になった現代では、なおさら身分証明書が必須のアイテムとなる[図50]。境界線を越える際には、ヴィザ申請書や旅行鞄や貨幣や文化間の翻訳とコミュニケーションの道具である辞書が必要になるかもしれない[図51-54]。さらには、サヴァイヴァルのダイヤグラムや、旅の途次につぶやかれたメモさえも[図55]。このセクションのグループ展で幹となるゴンザレス=トレスの作品《“Untitled”[Passport #II]》(1993)に現われる、荒れ模様の空を飛ぶ鳥のように、人間は、国境を越えて、想像上あるいは現実の地図を描き出す、あるいは彼らの目前に移り変わる風景が繰り広げられる[図56-60]。合法、非合法に関わりなく、移動すべき差し迫った理由をもち、現状の変化を心から希う人間がいる。変化は、移動によって生まれるばかりではない。鳥の飛ぶ大空のように、境界のない世界に変貌させるという方法もあるだろう。ロザンジェラ・レンノ(Rosangela Renno)の作品のように、犠牲となった人間(建設労働者)の生と死の境界を超える顕彰の儀式と、図書館から秘密裏に盗み出された資料のように、国家とそれを囲む境界の証拠を抹消する作業を遂行しなければならない[図61]。空無へのパスポートは、手に入るだろうか?


49──Rula Halawani
50──Baha Boukhari


51──Meric Algun Ringborg
52──Lara Favaretto


53──Ahmet Ogut
54──Meric Algun Ringborg


55──Simon Evans


56──Jorge Macch


57──Hank Willis Thomas
58──Kirsten Pieroth


59──Mona Hatoum
60──Zarina Hashmi



61──Rosangela Renno

 最後に、今回のビエンナーレのタイトルについて、簡単にコメントしておこう。タイトルは“Untitled”であり、その後に五つのグループ展のタイトルと同じように、「(12th Istanbul Biennial), 2011」が連なっている。このタイトルを一瞥するだけで、今回のビエンナーレをまさにゴンザレス=トレスの作品のひとつに付け加えようとする意志を理解できるだろう。展覧会が、それを含む不在の作品に入れ子状に組み込まれる。論理学では、普通、自己言及性は禁止されるが、言及すべき中心にある自己=作品が無であれば、禁止は解除され、その不在の穴をすり抜けてあらゆるものが逃げ去っていく。Untitled(タイトルなし)は、アートの境界の内部に自由を閉じ込めようとする窮屈な制度から自由になる、そのことを指し示す匿名の目印ではないだろうか。

第12回イスタンブール・ビエンナーレ

会期:2011年9月17日(土)〜11月13日(日)

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