2018年08月01日号
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フォーカス

美術/でないものへの目線と言葉──「石子順造的世界──美術発・マンガ経由・キッチュ行」展

都築響一/成相肇

2012年02月15日号

 1970年代、「低級芸術」「まがいもの」「悪趣味」「低俗なもの」として冷ややかに見られていた、銭湯のペンキ絵やマッチのラベル、あるいは「路上のガラクタの類」などを批評の対象として、独自の「キッチュ論」を展開した石子順造の世界が、府中美術館で開催中。石子順造の「キッチュ」およびその世界について、都築響一氏と、同展のキュレーター成相肇氏に語っていただいた。

先駆者としての石子順造

都築響一──僕は1970年代初期、高校生の頃に石子順造を読んでいました。ちょうどアメリカでもキッチュ論が話題になっていて、『ガロ』が好きだった高校生にとって、石子さんの「キッチュ論」はその日本版のような気がしてすんなり受け入ることができたわけです。まあ、その後ずっとこの展覧会まで、石子さんは遠い存在でしたが。
 今回の展覧会では、つげ義春の「ねじ式」の原画が見たいと思って来た人も多いんじゃないかと思いますが、僕は石子さんのさまざまなコレクションがすごくおもしろかった。聞いてみたら石子さん御本人の収集ではなくて、生前に書かれていたテーマに沿って美術館のほうで集めたアイテムだそうですが。石子さんは『キッチュ論』が一番有名だったし本人もそう思っていたのかもしれないけれど、この展覧会を見ると、石子さんが取り上げた対象は、いまとなってはキッチュと言うよりも、ごく普通でノーマルな感じがします。彼は普通に目が広かった人なんですね。ストリート・アートもあればハイ・アートもある。今だったらこれは何の不思議もなく受け入れられるものだと思います。ただ60年代から70年代初期は、「このマッチのラヴェル、かっこいいよね」では美術業界や世間が納得しなかった。だから石子さんは、マッチ箱やペナント、食品サンプルとかに「キッチュ」という言葉をつけないと納得してもらえない時代の、先駆者だったという感じはします。今だったらそういう説明は必要はなくて、グラフィック的、ヴィジュアル的にかっこいいだけですむ。展覧会の壁に引用されていた文章に、「視覚史、ヴィジュアル・ヒストリーを定義し直したい」という石子さんの言葉が抜き書きされていたけれど、彼はヴィジュアル・ヒストリーを定義し直すうえでキッチュという言葉を使って、これらをハイ・アートと同じように見てほしいと努力していたわけですね。そういう先駆者としての石子さんの業績があるから、僕たちはそんなことをしなくてすむ。これを「今で言うサブカルですよね」みたいとらえ方をするのは間違っていると思うわけです。それは『少年マガジン』はわかりやすいマンガ、『ガロ』はわかりにくく高尚なマンガだという見方があった70年代と同じです。また、観光地のペナントと現代美術を一緒に組み合わせるのがキッチュでポップだというのは、すごく狭い見方だという気がしますし。
 石子さんが活躍した時代はマンガが巨大メディアになって、少年マンガがピークのときですね。演劇も現代美術もそうだけど、60年代末から70年代初期は反体制的なものが出てきてものすごく動いていた。そういうときに50年代的な考え方、今までのお勉強では無理だと石子さんは考えたと思うんです。でも自分はやはり知識人だという意識もあった。そういうときに自分の立ち位置をどこにおくか、めちゃくちゃ動いているものをどう見たらいいのか、ということをすごく誠実に考えた人だと思う。いまのように、コミケに何百万人も集まるようになるなんて、誰も想像してなかった時代だったけれど、流れに対して目を背けたり、色眼鏡で見なかった。だからサブカルというよりは、ものごとを真正面から見ていた人だと、展示を見てそう思いました。サブカルという文脈では全然とらえていない。これはメインカルチャーなんだというのが僕の素直な感想です。


つげ義春「ねじ式」(原画)

「キッチュ」の時代背景

成相肇──初期の代表作『表現における近代の呪縛』(1970)のあとがきで、石子はしきりに脱力感や空虚感について書いています。今おっしゃった通り60年代の反体制的思想を強く持っていた石子は、安保闘争での新左翼の敗北を主な契機として、70年以降キッチュにのめりこんでいった。そうした空虚感は必ずしも石子だけのものではなくて、社会的にも共有されていたはずです。特に70年の大阪万博に向かって高まっていた未来志向がその頃を境にして虚しくなっていくわけですね。その時代の空気に石子は敏感だった。

都築──そうだったと思います。大阪万博はそういうポジティヴな未来志向が許された最後の万博ですから。

成相──あれこそキッチュのきわみですね。その頃の少年たちが未来志向を抱けなくなったとき、プライヴェートなところに未来志向を投影していったのがオタクになったという分析を森川嘉一郎さんがしています。そう思うと石子の視野転換はすごく正直だった。

都築──本当に正直ですよ。今キッチュとかサブカルというと斜に構えて「やっぱりハイカルチャーじゃないよ」みたいなニュアンスが出てしまうでしょう。それに対して石子さんは時代の流れをちゃんと誠実に見ようとした人だと思う。《モナ・リザ》グッズも、半分は批判を込めてたんだろうけど、半分はものすごくおもしろがっていた。赤瀬川の模造千円札だって、ウォーホルばりのポップアートだと思ってたのかもしれない。両方わかってたから、ただの批判に終わらなかったんでしょうね。

成相──美術の世界では60年代末に「もの派」が登場して、大衆の論理や問題関心から離れた概念性を強めていくわけですが、そこで石子は美術から距離をとり始める。海外では特にポップアートがキッチュの仕組みを参照しつつ作品展開させていたのと同様──石子はポップアートを積極視してはいなかったようですが──、表面的に消費されるだけではないキッチュの構造を明るみに出そうと石子は苦心していました。しかし結局、美術と美術でないもののあいだはますます溝が深くなって、いまはどうにもならなくなっている。70年頃を前後して、ハイ/ロー、メイン/サブといったジャンル形成と閉鎖性が際立つようになるのではないでしょうか。マンガでいえば、いまでも『ガロ』みたいないわゆるアングラ的なマンガはあるわけです。でもかつてのように『ガロ』と『少年マガジン』が同時に語られるような言説空間はもはやありえなくなっています。同メディアを扱っていてさえ、まったく意思疎通ができなくなっている。今回の展覧会では石子以降を追うところまでは手が回りませんでしたが、そのあたり都築さんはどう思われますか。1979年生まれでバブル期を享受していない僕としては具体的につかみかねるのですが、むしろバブル期にキッチュは花盛りを迎えますよね。そのときの完全な消費文化としてのキッチュは、石子が迫ろうとしていた、水面下でうごめくような流動的なキッチュとはずいぶん様変わりしているような気がします。

都築──そのへんについてはいろいろ思うことがありますが、60年代から70年代初期に学生運動があったでしょう。僕はあそこで美大は終わったと思いました。現代美術がふつうの人たちに理解できなくなってきたのは、学生運動以降の美大のせいでもあると思うんです。「もの派」とかもそうだと思いますが、美大と美大の先生たちがこしらえたもので、街場からあがってきたものではないですよね。だっていま、美大に入らないとアーティストになれないとか思われてるでしょ。美大だけがどんどん肥大して、おかしな状態になっている。もし僕が音楽やりたかったら、ターンテーブルを買うとか、ギター買ってスリーコード覚えて、いきなり曲を作るでしょ。まず音大とか目指さないじゃないですか。詩人になりたかったら文学部国文科なんか目指さないで、いきなり書くでしょ。でも美術だけは、画家になるためには美大を受験しろという話になっていて、すごく歪んでいますよね。美大というのは研究者になる人以外にはもはや弊害しかなくて、そういうことが石子さんの時代以降、顕著になってきたと思う。
 もうひとつ言えることは、石子さんの頃までは時代のトレンドがあった。美術もそうだけど、例えば音楽は一番そういうことが言えますよね。この時代はロック、この時代はディスコ、こういう音がメジャーということがあったでしょ。しかし、いまは完璧に何でもありです。ブライアン・イーノが書いていたけれど、イーノの娘がiTunesにすごくいろんな曲を入れていて、「お父さんこれかっこいい」というので、聴いてみたらツェッペリンのファースト・アルバムだった。それで「お前これは40年以上前の曲だよ」と。つまり、iTunesに入れてしまえばどの曲も等価値であって、歴史的な意義とか、コンテクストとか、関係ないんですよね。それがいいのか悪いのかわからないけれどいまは確実にそうなっていて、他のジャンルも音楽のようになりつつあると思います。石子さんの時代のように「これがメインだ、これがサブだ」「これがハイだ、これがローだ」と簡単に区別しきれない時代に僕たちはいる。だからこの展覧会を見ていて思うのは、石子さんの頃は対立するものがすごくはっきりしていたので簡単でいいなと(笑)。敵対するものがはっきりしていた最後の時代で、それが今は政治ですら何が敵対しているのかわからなくなってますもんね。

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