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横尾忠則の〈反復〉とは何か? 横尾忠則現代美術館開館記念展1「反反復復反復」──二度ある美は、三度ある。

市原研太郎2012年11月15日号

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 11月初旬、横尾忠則現代美術館が開館した。横尾の出身県である兵庫県の県立美術館王子分館の西館をリニューアルして、彼の名前を冠した現代美術館にしたのである。リニューアル後の美術館の内部は、1階がオープンスタジオを兼ねたエントランスホール(ミュージアムショップとカフェを併設)。2階、3階がギャラリースペース。そして、4階にアーカイヴルームといったシンプルな構成になっていて、大きくはないが、すっきりと爽やかな印象を受ける。


横尾忠則現代美術館外観[提供:横尾忠則現代美術館]

 この美術館で、オープニング記念の横尾忠則展「反反複複反復」が開催されている。この展覧会の企画趣旨は、横尾作品に顕著に見られる〈反復〉の現象に光を当て、関連する作品をまとめて提示し、横尾にとっての〈反復〉の意味を問うことにある。たとえば、4階のスペースには、横尾が60年代に美術界にデビューするきっかけとなった「ピンクガールズ」シリーズの作品が飾られ、その横にそれ以後に制作されたモチーフが同一の作品が並んでいる。各作品のそばに制作年が大きく記されて、いつの時代かはっきり分かるようになっている。しかし、その年代の間隔はまちまちで、それらを眺めていても「ピンクガールズ」の作品と、不定数の模作の間に、モチーフの同一性以外に、これといった規則性があるようには見えない。このような模作が次々に生まれる理由は、彼の最近のツイッターに記されているように、彼の制作の根底に反復(模写)があるからである。やはり同じツイッターで、オリジナリティを批判(これは過去になされた対談で頻繁に語られている)したり、本オープニング展を「自己贋作」とまで言わしめている。


左:《お堀》1966年 徳島県立近代美術館蔵
右:《人生にはゴールがない》2005年 国立国際美術館蔵

 しかし、反復にせよ模写にせよ、いわゆるポストモダンのクリシェではなかったか? 横尾が、ニューヨークの近代美術館で「ピカソ回顧展」を観たときに「画家宣言」をしたとされる1980年は、まさにこれらの手法が美術界を席巻しつつあった。この事情を教慮すれば、横尾は典型的なポストモダンの画家であると言ってもよいのではないか。さらに、オリジナリティを拒む点において、ポストモダンの紛れもない刻印を押されている。モダンの行き詰まりを乗り越えるべく、モダンの進歩的なイデオロギーを完全に反故にして、過去に回帰し伝統を復活させたポストモダンのアーティストに連なるひとりとして、彼を位置付けてもよいのではないか?
 私は、グラフィック・デザイナーとして成功を収めていた横尾が「画家宣言」をしたと聞いたとき、奇異という感想を抱いた。というのも、以前からアングラ演劇のポスターなどを見知っていた人間として、彼のグラフィック・デザインの作品がすでに優れたアートであり、わざわざ絵画を制作してまでアーティストになる必要はないのでは?と思ったのだ。しかし、彼の言葉によれば、宣言をしたというより表現のメディアを一つ増やしたに過ぎない、つまり絵画も制作するということだったのだ。今から考えれば「ピンクガールズ」で明らかなように、80年以前から絵画を描いていたので、画家宣言自体には重要な意味はなかったのかもしれない。しかも反復は、彼のコラージュ作品でも分かる(横尾はコラージュを模写と同等に扱う)が、ポストモダンが隆盛するその前から行われてきたので、彼をポストモダンのアーティストと呼ぶには無理がある。


左:《運命》1997年 作家蔵
右:《20年目のピカソ》2001年 作家蔵

 では、横尾の反復は何に由来するのだろうか? 横尾の創作の動機の一つは、ポストモダンではなくアンチモダンである。折に触れて彼が表明してきたモダンの理性中心主義に対する批判と、直観と感情に支えられた制作の姿勢は終始一貫しているが、これが作品の反復に直接繋がる。彼が模倣する絵画は、古典(本展では、フラ・アンジェリコやルーベンス)が主だが、これが引用され模写されるとき、一見単純だが、複雑な手続きを経て解体され復元される。それは、絵具の着色や筆捌きだけでなく、カンヴァスの上にさまざまな物をくっつけたり、カンヴァスを帯状に切って組み合わせる入念な手仕事のなかで行われるのだ。反復は、このようにそれ相応の労力を払って、オリジナルの作品をデフォルメする。彼の個人的な体験や幻想を基にした作品のほうはどうだろうか? これも同じ手続きを踏んで構成される。彼の記憶や過去に読んだ物語から引用されて組み合わされた非現実の幻想的な世界を、彼の肉体を介在させて出現させる。そこで生み出されたイメージは、彼の身体の肉の厚みを帯びたものになる。このイメージが、けっして透明でないことに注目したい。つまり横尾の紡ぎだすイメージは、現実であれ非現実であれ、再現的ではない。彼がしばしば口にした「異界」は、非再現的な彼方にあるのだ。そして、肉体が直観と感情を内包して、同じモチーフの繰り返しを要求するのである。


左:《暗夜光路 N市-II》2000年 個人蔵
右:《暗夜光路 N市-II 四度(よたび)》2003年 作家蔵

 このように反復されて出来上がったイメージは、横尾の想像力の産物である。しかし、想像力とは一体何なのか? 特にアートの場合、想像力は無条件で礼賛されるが、その本質が極められたことはほとんどない。横尾が駆使する想像力は、上述のように反復に導かれたイメージの世界を構築する。それは、死の恐怖に対する人間の意識の必死の抵抗ではないのか? 想像力が絶えた世界は、死後硬直した世界を彷彿させる。というより、死後の絶対的に不動の世界が想像力の死を例証するのである。だから、人間は想像力を働かせて死後の世界(現実のそれとは異なる)を思い描く。横尾の場合は、イメージに肉体の厚みが加算される。そのイメージは反復されることで、ウォーホルの反復とは正反対に、また横尾が引き合いに出したことのあるポストモダンの贋作者、マイク・ビドロによるピカソの模作の生命力の衰退(マンネリ)ではなおさらなく、生の充実度を増加させていく。「ピンクシリーズ」とその模作を見ていると、モチーフが反復される度に、おそらく60年代には感じられたであろう猥雑さや虚無的なものが消し飛んで、モチーフのあっけらかんとした女性の生命の強度(エネルギー)が、ますます大きくなっていくのを感じる。横尾の〈反復〉は、ウォーホルの死ではなく、生への意志の顕現なのである。
 それは、同時期に東京のギンザ・グラフィック・ギャラリーで開催されている「横尾忠則 初のブックデザイン展」にもはっきり現われている。彼が手掛けた夥しい数の本の装丁やデザインを一堂に会した展示場を、折々のデザインに書き加えられた彼のコメントを読みながら回っていると、グラフィック・デザイナーの時代からまったく変わらず作品から発散されるアナーキーなエネルギーに触れ、その反復(追憶)の熱気に包まれる喜びを覚えた。これらの作品が、横尾忠則現代美術館に収蔵され公開されることを期待したい。


左:© 寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』(1967)
右:© 柴田錬三郎、横尾忠則『絵草子 うろつき夜太』(1975)

開館記念展 I 横尾忠則展「反反復復反復」

会場:横尾忠則現代美術館
会期:2012年11月3日〜2013年2月17日
詳細:http://www.ytmoca.jp/index.html

横尾忠則 初のブックデザイン展

会場:ギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)
会期:2012年11月1日〜2012年11月27日
詳細:http://www.dnp.co.jp/gallery/ggg/

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市原研太郎

美術評論家。著書=『マイク・ケリー“過剰の反美学と疎外の至高性”』『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』ほか。

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