2017年06月15日号
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アメリカンアートの終焉?──2011年、ニューヨークのアートシーン

市原研太郎(美術評論)2011年03月15日号

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 1年3カ月ぶりのニューヨーク(以下NY)は、普段と変わらぬくすんだ色調の街並みだったが、どこか取り付きがたくよそよそしく感じられた。到着してから9日の後、NYを出発するまでに、昔と同様の親しげな表情を見せてくれるようになるだろうか? そしてできれば、かつて1970年代に滞在したころに覚えたノスタルジーが蘇り、帰るのが辛くなるような経験ができればと思う。

“アメリカのアートは終った”

 これまで必ず1年に1度訪れてきたNYに、1年以上の空白ができたのは、とくにリーマンショック後のアートマーケット、具体的にはアートフェアの退潮が目に見えて明らかになったためである。以前から、マイアミと比べてNYのフェアはセールスが振るわず、世界のギャラリーはマイアミに集まる傾向が強かった。そのうえに、2008年のリーマンショックが追い打ちをかけた。ショック後の2009年、NYのフェアのプレヴューは人影がまばらで、出展していた日本のギャラリーに成果について尋ねても、はかばかしい答えは返って来なかったのである。そういった事情もあって、日本のギャラリーだけでなく、アメリカやヨーロッパのおもだったギャラリーのなかからも、出展を思いとどまるケースが出てきた。アメリカでは、マイアミのフェアだけが、リーマンショックの影響を受けながらも持ちこたえてきたと言ってよいだろう。そのマイアミでさえ、2009年には、「タフなマーケット」とアート専門新聞が一面に掲げる始末だったのである。
 金融危機のショックは、勿論アートマーケットを直撃したばかりではない。The Armory Showという名のフェアをメインに開かれるNYの都市の活動にも、大きな影を投げかけた。ショック後の2009年に訪ねたNYの街頭は、日常的活動を途切れさせることはないが、消沈したように元気のない空気に包まれていた。そのため、私は去年のフェアはスキップして、ヨーロッパやアジアのめぼしい展覧会を見て回ったのである。とくに、ヨーロッパの東側と、アジアの韓国、中国そして台湾のアートシーンが、非常に興味深い活動を発展させ表現を発信している現状では、自然とそちらに足が向くのは仕方がない。私が、ツイッター上で「アメリカのアートは終わったのか?」という大げさな質問をつぶやいたのも、世界的なアートをめぐるこのような状況の変化を観察してのことだった。
 もちろんNYのアートの世界が、この程度の経済危機で消滅するはずはない。今回目前にしたNYは、ショックから回復したかのようにエネルギッシュな活動を見せつけていたし(日本のほうが、まだ回復できないでいるように見える)、また世界のアートマーケットの中心に位置し、他の大都市から抜きんでて旺盛な運動を継続している。しかし、ギャラリー巡りをしてみると、アートの地図に変化が出てきたことに気がついた。2000年代に入って、9.11以降勢力を伸ばしてきた若手ギャラリーの筆頭だったJohn Connelly、また横溝静の個展を行なったCohan & Leslieが店を閉め、ほかの同様のギャラリーも経済的に厳しいとの噂を耳にしたが、Connellyと並んで頭角を現わしてきたDaniel Reichが健在なのには安堵した。
 それでも、チェルシー地区のギャラリーが移転したり、新しいギャラリーができたりと、大きく変化しつつある様子が見て取れた。チェルシーのギャラリーの中核を占める22、24丁目の大手ギャラリー、PaceMatthew MarksMetro PicturesAndrea RosenLuhring AugustineGagosianなどに変化はない。その周辺の通りでギャラリーが移転したり、新ギャラリーが出現したりしているのだ。結果、以前と同規模のギャラリー街が形成されている。この規模は、世界のどの都市もマネできないだろう。
 にもかかわらず、私がアメリカのアートは終ったとあえて記したのは、マーケットとして依然世界の中心にありながら、アメリカ出身の優れたアーティストの数が減ってきているという認識があって、アメリカから精力的に作品を産出する文化的なパワーが失われてきているのではないかと危惧したからである。先述したように、現在ではアメリカ以外の出身の注目すべきアーティストが非常に増えてきているので、「アメリカの世紀」と呼ばれた20世紀後半の再生は、もはや望むべくもないだろう。しかし、それ以上にアメリカが代表して具現してきたモダンのエネルギーが枯渇するような文明史的な地殻変動が起こりつつあり、それが、抽象表現主義以来アートのメインストリームであり続けてきたアメリカを、その王座から引きずり降ろそうとしている。


ニューヨークの町並み

新しいアメリカの胚胎

 奇しくもMoMAで開催されている「抽象表現主義」の回顧展は、連日多くの観客で賑わっているが、ポストモダンが金融危機で崩壊したかに思われる現在、無意識であれアメリカンモダンの真髄をとらえるべく人々が集まってきていると解釈できるだろう。しかし、それはポストモダンの常套手段である過去への回帰や復活ではない。ポストモダンのバブルがリーマンショックで弾けたことで、頼ることのできる安定した基盤を希求し、モダンの表現に眼差しが向けられていることは確かだが、われわれがモダンに戻れないことは言うまでもない。モダンの物質主義のアートにおけるもっとも英雄的表現であった抽象表現主義を振り返ることは、現在の危機をどのように乗り越え、そして未来をいかに構築するかをじっくり考える貴重な機会を提供してくれる。われわれは、かつてこのように素晴らしい表現を手に入れた。だから将来のわれわれも、このような喜びと栄光をもたらす新しい理念を創出できるだろう。その理念を表現するアートは、どのようなものか? 物質が幻覚に生成するまでの強度に達したポロックやニューマンの作品ほどの表現を、次に誰が提起してくれるだろうか?
 だが、そうした先見の明のあるアーティストは、今後アメリカから生まれてくることはないのではないか? 良くも悪くも物質主義の親玉であった20世紀のアメリカは、圧倒的な物理力で世界を席巻してきたが、その力に衰えが兆している。それは軍事力の話ではない。NYの文化が、理念として過去にその威力を示し、現在はその衰退を閲しつつある。以前は自信に満ち威圧的な迫力をもっていた、摩天楼に象徴的なNYの文化が、バブルの後遺症で妙に大人しくなっている(マンハッタンのビル群が収縮したわけではないにせよ)。これはたいへん好ましい現象である。いまだ政治的・軍事的覇権をかけてアフガニスタンやイラクで戦争を仕掛けてはいるものの、アメリカの心臓部で文化に大きな変容が静かに進行している。アメリカ人が少しは謙虚になり、他人に思い遣りを抱くようになれば喜ばしい変化の兆候だが、NYに関するかぎり、もはや昔日の大国の面影はない。いずれにせよ、現在のNYは多忙ななか人間的で優しげな表情を見せている。
 PS1で開かれているLaurel Nakadateの個展は、9.11と経済危機でアメリカが負ったトラウマを癒すという責務を引き受ける。責務とはいえ、この日系のアメリカ人アーティストにできることといえば、アメリカを旅しながら、さまざまなやり方でアメリカの傷を治癒させることを試みるだけである。アメリカの大地と交感するようなポーズを取り、そこに暮らす人々と交流しようと奮闘する。どれもたわいないパフォーマンスなのだが、物事に立ち向かう彼女のひたむきな姿勢と、人生をドラマティックに謳歌しようとする貪欲さに、思わず引き込まれてしまうのだ。彼女はアメリカ人だが、マイノリティのアーティストがアメリカを救おうとすること自体、古いアメリカの終焉あるいは新しいアメリカの胚胎の証しなのかもしれない。同じPS1では、オランダ人アーティストのSergei Jensenが「存在」を志向する表現に取り組んでいて、アメリカの物質主義的表現に似ているが根本的に異なる思想を開示している。これもまた、従来のアメリカ的な観点ではとらえきれない。情報誌『Time Out』は、ミニマリズムに引きつけてコメントしているが、甚だしい誤解だろう。
 アメリカのアートは、この例でも分かるように、美術史のコンテクストに参照しなければ、基本的に評価されない仕組みになっている。去年、アメリカの若手アーティストのSterling Rubyと対談したが、彼もこの参照の重荷について語っていた。美術史に参照するといえば、New Museumで開かれている二人のアメリカ人アーティスト、Lynda BenglisGeorge Condoの回顧展は、美術史への参照の典型と理解される。前者は、抽象表現主義やミニマリズム、後者は古典的な肖像画、キュビスムそして抽象表現主義といった具合に。そのうえで、それらを批判的にどこまで乗り越えられるかで作品の価値が決定される。アメリカで、作品が正当に評価されるには、まず美術史のコンテクストを取り入れるジェスチャーが必須の条件となる。「これから出てくるアーティストは、もっと大変になる」と言って、Rubyは苦笑していた。

アメリカンアートの礎

 NYのアートシーンを語ろうとすれば、他の大都市と同様、美術館の展覧会を取り上げなければならない。もちろん、美術館がその都市の文化のバロメーターになるからである。前記のMoMAでは、ウォーホルの映像作品を集めた“Motion Pictures”が開かれていた。これは、彼が撮影した映像の代表的作品を並べた展覧会だが、『スクリーン・テスト』のシリーズを中心に、8時間の長尺映像『エンパイア』も見られる好企画の展覧会だった。というのも、ウォーホルこそ、アメリカの現代アートの父と呼ぶに相応しい存在だからである。MoMAで開催されている“Abstract Expressionist New York”のほうは、ポロック、ニューマン、ロスコといった天才的アーティストを輩出している表現主義を展示しているが、ヨーロッパのアート(キュビスムやシュルレアリスム)を継承して創作されたという意味で、純粋なアメリカンアートではない。それは、同じMoMAの企画展“Picasso: Guitars 1912-1914”と比較すれば、よくわかる。
 ウォーホルに到ってアメリカンアートの礎が築かれたと言ってよい。アメリカ型のアートは、グリーンバーグの「平面性」で定義されるのではなく、物質とスペクタクルの狭間で揺れ動く表現の亀裂、すなわち歴史的に語るなら、モダンからポストモダンへの移行を印づける鋭い境界線上にある。ウォーホルは、その両岸をまたぐ橋を架けようとする。ウォーホルの作品に特徴的な反復表現や長時間撮影は、物自体と現象のあいだを往還する形而上学的ベクトルを畳み込んで異様な強度を孕んでいる。しかし、この展覧会で一番興味深かったのは、BBCが1965年に番組用に撮影したドキュメンタリー映像だっただろう。そこには、『スクリーン・テスト』のために、ウォーホルのファクトリーを訪れたスーザン・ソンタグが映されているが、初々しいソンタグと好対照なウォーホルのふてぶてしい笑い顔に、アメリカ文化のすべてを引き受けて十字架に架けられたキリスト、ウォーホルの紛れもない姿があった。ウォーホルは、アメリカンアートの守護神となったのだ。
 同じくMoMAの企画展“Looking at Music 3.0”で紹介されたアートとミュージックのアーティストたちが、80〜90年代に社会に向け全身でぶつかっていけたのも、ウォーホルという守護神がいたからであろう。最後にMoMAは、抽象表現主義のマッチョな表現潮流とバランスを取ることも怠らないようだ。それが、女性写真家を集めたグループ展“Pictures by Women: A History of Modern Photography”である。同様にPS1では、Carolee SchneemannからPipilotti Ristまで、60〜90年代に女性アーティストが制作したヴィデオ作品を見ることができた。
 アメリカの文化的起源であるヨーロッパに目配せすることも、NYは忘れない。グッゲンハイム美術館では、1910〜18年のヨーロッパで起きた、キュビスム、未来派、表現主義、ロシア・アヴァンギャルドの華々しい活動を総覧し、隣のNeue Galerie New Yorkでは、ウィーンの19世紀末美術を扱った展覧会が開催されている。数は少ないが、クリムト、シーレ、ココシュカの名作が並べられ、それらを鑑賞していると、彼らに思想的支柱を与えたフロイトの精神分析とは裏腹に、アートとは、満たされない性欲の卑近な代償や昇華ではなく、性的快楽をはるかに凌ぐ至上の快楽を提供すると確信された。実際アートは、性欲などの欲動とは違う次元で、欲望を充足させるユートピアを目指すのではないだろうか。ウィーンの世紀末美術と20世紀初期のアヴァンギャルドが交差する地点に、われわれが構想すべき未来の世界のヒントがあるのかもしれない。

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市原研太郎

美術評論家。著書=『マイク・ケリー“過剰の反美学と疎外の至高性”』『ゲルハルト・リヒター/光と仮象の絵画』ほか。

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