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「写真家・ホンマタカシ」は逆襲できるか?

飯沢耕太郎(写真評論)

2011年04月15日号

 東京オペラシティアートギャラリーで開催中の ホンマタカシ「ニュー・ドキュメンタリー」。 2005年以降に手がけた作品群を中心に、美術館の空間に応じてセレクションされた作品を展示するという今回のホンマタカシの試みは……。

 ホンマタカシの「ニュー・ドキュメンタリー」展が金沢21世紀美術館から東京オペラシティアートギャラリーに巡回してきた(7月15日〜6月26日には丸亀市猪熊源一郎現代美術館で開催予定)。これまでホンマの展覧会を見てきて、あまりうまくいっていないなと感じることが多かった。彼は雑誌や写真集のような印刷媒体とくらべると、展示が苦手なのではないかと思うこともあった。ところが、今回の「ニュー・ドキュメンタリー」展では、作品の見せ方のレベルが格段に上がってきている。主に現代美術作品を展示する会場の造りにあわせたインスタレーションが、ほぼ完璧に実現していた。ホンマの学習能力、そしてそれを実行していく編集・構成能力の高さには、あらためて驚くしかない。
 反面、ここまで「編集者・ホンマタカシ」による作品の操作性、構築性が前面に出てしまうと、彼の「写真家」としての無意識・身体レベルでの感度のよさがほとんど覆い隠されてしまっているように見えてしまう。もともと「編集者・ホンマタカシ」と「写真家・ホンマタカシ」のせめぎ合いは、彼の作品のあり方を特徴づける重要な要素だったのではないだろうか。


ホンマタカシ《Tokyo and My Daughter》より 2006

 わかりやすい例をあげよう。ホンマの「木村伊兵衛写真賞受賞後第一作」として刊行された『東京の子供』(リトルモア、2001)は、バブル崩壊以降の都市の環境を生き抜いている儚さと脆さをあわせ持つ子供たちの姿を、包み込むように捉えたいい写真集だと思う。ところが、その見えない震え、聞こえない悲鳴が伝わるような緊張感を保った写真集に、一枚だけ白っぽいゴムのような合成樹脂で作られた赤ちゃん人形の写真がおさめられている。このゴム人形の写真をわざわざ入れたのが「編集者・ホンマタカシ」の仕業で、そのことによって単純なドキュメンタリーではない批評性が写真集に加味される。不気味なゴム人形が子供たちの危機的な状況をさし示す記号となるのだ。


ホンマタカシ《Seeing Itself / Mount Rose》2006


ホンマタカシ《M / Washington D.C.》2010

 だが、同時にこのゴム人形の写真を見せられると、繊細に紡ぎ出されていった「写真家・ホンマタカシ」の営みにひび割れが生じ、白々としたすきま風が吹き込んでくるように感じてしまう。それでも、この写真集では「写真家・ホンマタカシ」はまだ優位を保っており、「その子自身が持っている無意識みたいなものを撮りたい」(タカザワケンジによるインタビュー、『Diaries2010〜2011』)という意図はきちんと実現していると思う。その後のホンマの仕事をふりかえってみると、少しずつ「写真家・ホンマタカシ」の優位性が失われ、ついには逆転するに至っているのがわかる。そして、「編集者・ホンマタカシ」の独裁的支配が完全に確立したのが、今回の「ニュー・ドキュメンタリー」展といえるのではないだろうか。
 今回の展示は、ホンマ自身が諸処で語っているように「現代美術作品を展示する美術館で、現代美術のルールで、写真を展示する」ことを大きな目標として設定された。彼がいう「現代美術のルール」というのが何なのか(そもそもそんなものがあるのかどうか)はよくわからないが、どうやら写真をそのままストレートに見せるのではなく、何らかの操作を加えていく手つきに関心が集中しているように見える。スナップショットの再構築(「Tokyo and My Daughter」)、ヴァナキュラーな古写真の引用(「Widows」)、自作の再編集(「re-construction」)、シルクスクリーンによる画像の改変(「M」)、写真とテキストを併用した「偽ドキュメンタリー」(「Together: Wildlife Corridors in Los Angeles」)、視覚装置の導入による「見え」の変換(「Seeing Itself」東京展では展示されず)など、ほとんどすべての作品がそうだ。
 先に述べたように、その「編集者・ホンマタカシ」のもくろみはほぼ完璧に成功している。もし『現代美術としての写真』といった本が編まれるならば、今回の展示は引用、デコンストラクション、複数性、自己言及性、反覆と置換等々、1980年代以降に多くのアーティストたちが推し進めてきた「写真のポストモダニズム」の動向を反映した見事な作例写真となりうるだろう。
 そのクオリティの高さを認めるのにやぶさかではないが、ホンマが著書『たのしい写真 よい子のための写真教室』(平凡社、2009年)で、これまた見事に証明してみせた優れた学習能力を披露するだけでいいのかという疑問は残る。問題はその先だろう。いうまでもないことだが、「現代美術のルール」はそれぞれの現代美術家たちが、それぞれの創造意欲を発揮することで作り上げていったもので、本来衣裳のように着たり脱いだりできるものではないはずだ。どうやら「編集者・ホンマタカシ」は(それが編集者たる所以なのだが)、「現代美術」というスタイルを学びとり、身につけることができると無邪気に信じているようだ。


ホンマタカシ《Trails》より 2010

 「写真家・ホンマタカシ」はよく知っているはずだが、写真でも「現代美術」でも、実際にものを作る時には無意識・身体レベルでの反応、すなわち衝動や欲望のうごめきがほとんどすべてを決定している。むろん、それを再操作・再構築して作品化することを無意味だというつもりは毛頭ない。近年、ギャラリーや美術館での写真展示において、「編集者」としての能力の有無が、さらに大きく問われるようになってきているのもたしかだ。だが、そのバランス配分ということでいえば、ホンマタカシは基本的に「写真家」であり、その本能に忠実であるべきだと思う。「編集者・ホンマタカシ」の専横を、このまま座視すべきではないのではないか。
 その意味では、今回の展示の最大の問題作はやはり「Trails」だろう。北海道知床半島での鹿狩りを撮影したとされるこのシリーズには、「写真家・ホンマタカシ」の表現の初発的なあり方がよく示されていると思う。雪の上に点々と散っているのが本物の血なのか、それとも赤い絵具なのかという議論があるようだが、実はそんなことはどうでもいいことだ。撮影という行為を通じて、見る者のイマジネーションをふくらませていく発火点となればそれでいい。この作品にもまた、ドローイングとともに並べられ、トリミングして再配置されるなどの編集的な操作が施されているが、他の作品と比較するとそれほど過剰には見えない。
 ホンマ自身「実は、『Trails』に関しては自分の中でもまだ整理ができてないんです」と『美術手帖』(2011年4月号)の椹木野衣との対談で述べている。「写真家・ホンマタカシ」の逆襲が、そのあたりから始まりそうな予感もする。

ホンマタカシ「ニュー・ドキュメンタリー」

会場:東京オペラシティ アートギャラリー
東京都新宿区西新宿 3-20-2/Tel. 03-5353-0756
会期:2011年4月9日(土)〜6月26日(日)

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