キュレーターズノート

早すぎる、遅すぎる──インスタレーションの膨張

阿部一直(山口情報芸術センター[YCAM])

2013年02月01日号

マルグリット・デュラス 関連展示 「ヴェネツィア時代の彼女の名前」「インディア・ソング」インスタレーション

 次に、昨年11月のマルグリット・デュラスの映画特集上映にあわせて企画された、『インディア・ソング』『ヴェネツィア時代の彼女の名前』によるインスタレーションを紹介しよう。
 このインスタレーションは、マルグリット・デュラスが監督した二つの映画作品『インディア・ソング』(1974)と『ヴェネツィア時代の彼女の名前(原題:空虚なカルカッタにおけるヴェネツィア時代の彼女の名前)』(1976)を、同時に対面させ、ひとつの空間を形づくるインスタレーションである。映画史に通じた人なら、まずはご存知だろうが、後者は、前者のサウンドトラックをそのまま使用して、映像だけをまったく違うかたちで再撮影したもので、そのような関係の作品形態は、映画芸術史上でもきわめて稀な例である。
 映画とインスタレーションの融合は、映像がこれだけ主流の現代美術界において、むしろ驚くほど少ないといえるかもしれないが、理由は不明である。かつて、『ゴダールの映画史』の4部作完成版が、ドクメンタXで、ダン・グレアムの空間装置とともにインスタレーション的に初公開された例があるし、クリスチャン・マークレーの映画の膨大なサンプリングから構成される映像作品などは馴染みの例である。今回のデュラスは、YCAMでの映画のインスタレーション展開としては、『ゴダールの映画史』を巨大画面+5.1サラウンド空間で公開したインスタレーション的展開や、王兵(ワン・ビン)の『原油』『名前のない男』の2作品を、通路などの公共空間に映像展開した例に次ぐものとなる。
 マルグリット・デュラス(1914-1996)は、もちろん小説家としてあまりに著名であるが、映画作家としても映画史の極北に位置するといえるような、特異の作品を多数制作している。『雨のしのび逢い』(1960)、『夏の夜の10時30分』(1966)などの小説を原作とする作品、または『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(1959)、『かくも長き不在』(1960)などの映画脚本作品もあるが、他の映画監督による映画化では、言語/音声/映像の関係性において、自分の作品の抱える本質的問題がまったく触れられていないことに強い不満を感じていたデュラスは、60年代後半から、自らがキャメラを覗いて映画監督を務め、自身のテキストに対しての妥協を微塵も許さないかたちでの、過去の映画を完全に無視したインディペンデントな映画制作に乗り出す。
 なぜいまデュラスなのかといった問題は、デュラス作品の持つ、中心を破壊する周辺性(ユダヤ性、移民性、転移的ノマド性)が、21世紀になった現在においてむしろより切実な課題となって突きつけられているというよりほかはないが、思想的・言説的提言の持つ限界や余白を無効にする意味で、圧倒的な存在への強度としての映像/音声の再考の意義はこれまで以上に高いといえるのではないか。その自律的徹底化という点で、これほどの達成が芸術史でありえたのだろうかというほど、後期のデュラスの映画作品は特異である。「シネマ・ディフェラン(異種の映画)」とは、デュラス本人が自らの映画制作に名付けた概念であるが、デュラスの最初の映画作品は、共同監督として制作された『冬の旅・別れの詩(ラ・ミュジカ)』(1966)であるが、最初の長編『破壊しに、と彼女は言う』(1969)によって、デュラスの本格的な映画思考が始まるとみていいだろう。しかし、この作品ではまだ、映画に登場する人物は、映像的にも音声的にも、その人物に同一化された「言葉」によって画面上にあてがわれていく。しかし、映画の最後に訪れる壮大なカタストロフの振動が、その後のデュラス作品の「破壊」の巨大さを暗示する。──「破壊する。……その語がわれわれに打ち明けられたのは、それがおのれを破壊しつつ、いかなる現在時からも永久に分離されたある未来に備えて、われわれを破壊するためなのだ。」(モーリス・ブランショ『破壊する』、1978)。


『インディア・ソング』より/『ヴェネチア時代の彼女の名前』より

 その後、何作かを経て、『インディア・ソング』(1974)の出現によって、デュラスが目指していた「シネマ・ディフェラン」のある到達点になっていることは衆目の一致するところである。そこでは、文字、語られた言葉、音声が相互に分裂しあい、映像と音が異なる位相のなかで進行していくという表現が頂点を極めている。音声の主役となるのは、オフの複数の「声」(あるいは「叫び」)の存在であり、画面上の登場人物とは異なる語り、愛の想起によって、画面外で関係が再編されつつ、世界が進行していく。デュラスの作品に登場する第三人称、特に「彼女」は非常に強い存在であり、かつきわめて茫漠たる存在でもある。その「彼女」とは、どの「彼女」であるのか。いつのまにか、その存在は具体的指示と根拠を欠きだし、存在するが無名の、また無数の「彼女」による語りが、作品を覆っていく。無名の「彼女」による世界の叙述が、「私」=主体の語り方、存在、制度を脅かし始める。『インディア・ソング』の設定は、インドのカルカッタ周辺となっているが、映像に映っている撮影場所は、パリ郊外のロスチャイルド家が所持していた邸宅=廃屋である。ここは、ナチス占領下に、ヘルマン・ゲーリンクが駐留占拠していた場所であり、領土化、再領土化、脱領土化の記憶のカタストロフが繰り返された場所であることがわかる。おそろしい空虚が充ちている。
 しかもデュラスは、『インディア・ソング』の2年後に、そのサウンドトラックをそのまま使って、映像だけがまったく異なる『ヴェネツィア時代の彼女の名前』(1976)を発表した。ここでは、同じ『インディア・ソング』のロスチャイルド邸が撮影対象となるわけだが、さらに完全なる廃墟と化しており、無人の光景が延々に続く。撮影監督のブリュノ・ニュイッテンによって、その手を加えない崩壊自体が、ほとんど自然光のまま映像化されることになる。これはデュラスが半ば強制的に自然光による状態で撮影させたもので、映像的によって事象を破壊させた/させつつあるものといえるだろう。
 今回、これら2作品を、同一の空間で音声トラックを精妙にチューニングしてサラウンド的に共有させつつ、巨大な画面を対面させるかたちでインスタレーション化させる試みを行なったわけだが、これによって明らかになったのは、制作間隔は短いものの、『インディア・ソング』と『ヴェネツィア時代の彼女の名前』のあいだの凄まじい亀裂である。それにしても、『ヴェネツィア時代』の驚異的な移動映像から引き剥がされるように生まれる光はどう見ればいいのか。2作を併映して初めて理解が及んでくる、計算され尽くされた撮影が故に生じる困難と自由、作家の脳内に漂うべき分裂した時間をトレースする感覚は、映像/映画芸術のある頂点といってもよい。デュラスにとっては、主体の制度や存在の仕様と同様に、場所の存在も、固有名すらも、同一化されるものではない。カルカッタ周辺は、世界に無数に存在し、ここかしこにいまだに散逸している。『ヴェネツィア時代』はさらに引き継がれ、『船舶ナイト号』『セザレ』『オーレリア・シュタイナー:メルボルン/ヴァンクーヴァー』そして『アガタ』と、闘争は続くことになる。

Select CINE TECTONICS=18 マルグリット・デュラス 関連展示「ヴェネツィア時代の彼女の名前」「インディア・ソング」インスタレーション

会期:2012年11月2日(金)〜18日(日)
会場:YCAM スタジオB
山口県山口市中園町7-7/Tel. 083-901-2222

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