キュレーターズノート

終わりはいくつある?──はじまりとしての『THE END』

阿部一直(山口情報芸術センター)

2013年05月15日号

 山口情報芸術センター[YCAM]は、アートとシアターの両方のプロダクション機能をはたしている施設だが、昨年12月に制作・初演したオペラ『THE END』は、たぶんそのどちらのジャンルから発生するべくした作品ではなく、さらに現代音楽やクラシックの領域からも遠い、非常に稀な成り立ちによって生まれたプロダクションといえるだろう。この作品が今度は、2013年5月23、24日にBunkamuraオーチャードホールで東京公演を行なう。プロットとしてのコンセプトメイキングとメディアテクノロジーがどのように照合されて舞台空間として成立しているのか、どの既成ジャンルも取り組まなかったこのような領域が、メディアテクノロジーの応用と集合のクリエーション・デザインから発生している実例が、この『THE END』といってもいいかもしれない。


ill. by YKBX ©Crypton Future Media, INC. www.piapro.net ©LOUIS VUITTON

 『THE END』は、ボーカロイド・オペラと呼ばれているように、ヴァーチャルなキャラクター「初音ミク」が、オペラのヒロインとして登場するもので、従来のオペラに必須条件であった生身の人間=歌手はいっさい出てこない、映像と音とステージテクノロジーのみによるオペラである。現代音楽におけるオペラの事例は、近年の実験的な作品としてもそれなりの量が書かれており、ラッヘンマン、リゲティ、シャリーノ、デュサパン、ファーニーホウなど、数を上げればかなりのものになるが、MITなどのラボ実験を除いて、人間の実声を排除したステージをオペラと呼んでいる例はまずないと見ていいだろう。
 では、なぜ『THE END』はオペラなのか。ここで、「なぜいまさらオペラなのか」という問いと、「なぜ『初音ミク』のオペラなのか」という二重の問いが生まれてくるだろう。
 『THE END』の成り立ちを考えると、YCAMと渋谷慶一郎+池上高志で、2006年に取り組んだ新作サウンドインスタレーション「filmachine」に、その発端を遡ることができる。「filmachine」は、「第三項音楽」という池上の生命論から発生してきたテープマシン複雑系理論のベースと、プログラミングと音響生成の技術的なベースを、極端に突き合わせ、最終的に立体音響空間表現というプラットフォームに落とし込んだインスタレーションである。ここでは、実験は人間がセットアップはするけれども、実験結果は人間が完全にトレース不能な要素からすべてが構成され、「filmachine」というタイトルは、見えないフィルムのように組織的に空間を覆う音響を目指したことから名指されている。
 『THE END』は、何年か措いてその次のステップをやろうと継続的に渋谷と話し合っていた段階で、今度は形式的にはインスタレーションではなく、人が出てこない、ピアノだけがオブジェ的に唯一の主役となる抽象的な舞台作品はどうかという発想からスタートした。そこで、舞台演出的な側面があるのであれば、その役割としてコンセプトを共有しつつ、時代を読む能力としても適任はだれになるのかと検討した結果、同じ1973年生まれの同時代を共有するチェルフィッチュの演出家・劇作家の岡田利規に依頼することになった。
 ピアノは、いってみればきわめて西洋的な論理思考を表徴する、脳を外化したような機能化された楽器であり、またそれ自体が優れた音響装置とも受け取れるものである。音響空間をオブジェ化するという「filmachine」のアイデアから、舞台空間を経由して、ある意味大衆的エンターテインメント要素も含んで発展的に考えるうえで、ピアノがオブジェであり、さらに舞台空間がそれを包含する上位の音響オブジェとして成り立つと考えたとき、オペラが有効なのではないかということになった。とはいっても通常のオペラの持つ人(=歌手)の生の声による光輝な部分ではなく、非人間的オブジェとしての空間と音響の組み合わせの形式的有効性だけを乗っ取って、電子音響によってまったく新しいものに作り替えようという発想である。
 オペラというのは、17世紀に登場した非常に近代的な合理主義に満ちた人工的な装置であり、宗教音楽と世俗音楽しかなかったその狭間で、新たな近代精神としての人間の存在をより凝縮させる機能を持とうとした芸術形式である。つまり、そこでは登場人物の死や生が繰り返し反復され、1人の人間の存在以上の巨大なエネルギーを生み出すといったクリシェがすべてである。これはカッチーニからヴェルディ、ワーグナー、ベルクに至るまで完全に維持された形式だ。しかし、『THE END』には人間は不要である。ブリュンヒルデは要らないが、『ラインの黄金』の冒頭の空間振動だけは必須ということである。


オペラ『THE END』

 『THE END』では、オペラを人類学的に見たうえでの音響装置要素だけを抽出し、またそこから近代精神の担い手である人間というフィルターを消去し、非人間中心的なものの存在へ現在の世界を奪還させるという、ひとつのアンビバレントな挑戦だが、しかし、そもそもオペラには、ヒロインという存在が必要である。その愛と死への焦燥が、エネルギーの根源になっている。この問題を解決する、舞台上に非人間的なものを存在させ、人間でありながら人間でないヒロインの存在を考えたときに、初音ミクが自然に浮上することになった。ミクはキャラクター化されていて、一種の集合知として出てきているが、どこまでが人間かどうかわからない、プログラム的な存在であり、どのミクが正しいミクなのかわからない。ミクらしいものはあるけれども、“本当のミク”というものは、それぞれのファンがメディアをとおして思い描いているという存在になる。そして、はたしてミクには死はあるのかという問いも根源的テーマになる。さらに興味深いのは、ミクが歌う場合、VOCALOID(ボーカロイド)を使わざるをえないという技術的問題が、反対に人間の実声を使わない音響装置としてのオペラという側面をより加速することにもなったのである。
 『THE END』のメディアテクノロジー的側面でのもっとも大きな特徴は、舞台空間をステージだけでなく客席もまるごと含めて、脳内空間のような一種の音響態を目指していることだろう。全方位を音と音圧に包囲される音響空間では、音圧、グルーヴ、空間的方位感覚など、フィジカルな充溢度が非常に重要になってくる。そういうもので脳と頭蓋を満たすために、5.1chを二つ重ねて10.2chにした、劇場総体を使った電子音響的バーチャル・リアリティが試みられた。またそれに、対応する映像表現として、4枚の大型スクリーンとプロジェクションマッピングが合成された、擬似的な立体映像空間がデザインされる。この空間を充足させるために、渋谷はあらゆる多様な音楽要素──ポストロックから、ポップス、ヒップホップ、エレクトロニカ、サインウェーブ、リゲティまで──を、並列的にパラフレーズして、物理的にもデザインし、音響空間的原理にマッピングしていったと考えられる。通常のオペラの場合は、オペラ歌手の音色・音量・ニュアンスといった個性が絶対的パラメータとなって成立するのだが、ミクのVOCALOIDでは、それらがすべてフラットになってしまうので、そのせめぎあいが、非常に面白い実験にもなり、反面、人の実声に左右されない音量・音圧を、空間としての電子音響として突き詰めることができたといえるだろう。その物理的な音の時間性、反復性に映像、照明、舞台構成デザイン、衣装(しかも今回はルイ・ヴィトン/マークジェイコブスのデザインで、ダニエル・ビュレンが参加しているスーパーコラボレーション)などがシンクロしてくる。その成果を、ぜひ実際にご覧いただける機会があればと思っている。『THE END』は、東京の後に、海外でも公演が予定されている。

『THE END』

音楽=渋谷慶一郎
台本=岡田利規、渋谷慶一郎
共同演出=渋谷慶一郎、YKBX、岡田利規
出演=渋谷慶一郎、初音ミク
舞台美術=重松象平
映像=YKBX
音響プログラム=evala
音響=金森祥之
ボーカロイド・プログラム=ピノキオP
テクニカル・サポート=筒井真佐人
プロデューサー=東市篤憲(A4A)
キュレーター、スーパーバイザー=阿部一直(YCAM)
協力=山口情報芸術センター[YCAM]
山口情報芸術センター委嘱作品 2012

会期:2013年5月23日(木)、24日(金)
会場:Bunkamuraオーチャードホール
東京都渋谷区道玄坂2-24-1/Tel. 03-3477-9111

会期:2012年12月1日(土)〜12月2日(日)
会場:山口情報芸術センター
山口県山口市中園町7-7/Tel. 083-901-2222