キュレーターズノート

グループ「幻触」と石子順造 1960-1971

工藤健志(青森県立美術館)

2014年04月01日号

 この夏から青森県立美術館、静岡県立美術館、島根県立石見美術館という3館の共同企画で、「美少女の美術史」という展覧会がスタートする。本展覧会は2010年に同じ3館で開催した「ロボットと美術──機械×身体のビジュアルイメージ」の続編という位置づけで、「ロボット」に続いて、今回は「美少女」をテーマとし、美術、文学、漫画、アニメ、フィギュアなどさまざまな領域を横断しながら、過去と現在の日本の文化について考えるという企画。現在、3名の学芸員がドタバタと全国をまわって準備を進めているが、そろそろカタログも作り始めなきゃということで、先日、静岡県美に集まり鼎談の収録を行なった。なぜ静岡に集まったのか……、まず参照できる資料があること、地理的に3館の真ん中に位置しているので集まりやすいことなどいろいろ理由はあるのだが、なによりも個人的には静岡県美の単独企画展である「グループ『幻触』と石子順造1966-1971」を見たかったから。はたして、予想を遥かに越える刺激に満ちた展覧会であった。ゆえに今回は東北ネタではないものの、本展について書いてみたい。

 グループ「幻触」という静岡の戦後美術の動向を総括するこの展覧会。評論家石子順造の活動を軸にして東京(中央)との関連性を交えながら、地方の芸術運動を多角的に検証していた。石子と「幻触」と言えば、例えば椹木野衣の『戦争と万博』(美術出版社、2005)や「もの派──再考」展(国立国際美術館、2005)がきっかけとなり、もの派との深い関連性が指摘され、再評価が進んでいるが、そうした近年の研究成果を踏まえつつも、むしろ「幻触」というグループがどのように起こり、どのように展開していったのか、その変遷の過程をどこまでも等価に扱うことに本展の狙いはあったように思う。展覧会は、第1章:グループ「白」の時代、第2章:石子順造の世界観、第3章:「幻触」前夜、第4章:「幻触」1966-68──「見る」ことへの問い、第5章:「幻触」1969-71──もの派との交差 制度への問い、という五つのセクションに分けられ、作品に加え、さまざまな関連資料が有機的なつながりを持って展示されていた。
 石子は病気療養のため鈴与株式会社の副社長を頼って1956年に清水へ移り住むが、鈴与に勤務しながら鈴与の労働組合が発行する『鈴與文芸』を発表の場とし、木村泰典という本名で批評、創作活動を開始する。さらに1957年から清水在住の若い作家たちとの交流を開始し、1958年2月にグループ「白」を結成。その発足趣旨書をみると、「僕達は絵画、文学、映画、演劇、詩、音楽、写真等の各ジャンルに於ける現代美術の課題的一般性と、敗北主義的個別感の拒否の容認の下に、自由にして創造的個性の葛藤の場を前提としてグループする。芸術に於ける創造、批評、享受は常に正三角形の三頂点として考えられねばならぬ。(…中略…)グループ展、合評、講演、座談、研究会等、多角的にして有効な刺戟の糧を相互に再生産していこうではないか。」とあり、まだ本格的な評論活動に入る前ながら、後の石子順造らしい視座が読み取れる。
 今回の展示を見る限り、この時期の「白」の作品群は絵画が中心で、池田龍雄や桂川寛、中村宏らとの交流や、前衛美術会展、日本アンデパンダン展への参加もあってか、50年代のルポルタージュ絵画の流れを汲むものが多いように見受けられた。ルポルタージュ絵画特有の教条主義的描写は認められるものの、政治的な印象はほとんど受けず、むしろ「絵画としての絵画」はどうあるべきかの探求に重きが置かれているよう感じられた。伊藤隆史の作品からは自らの実在を社会との関連のなかで画面に定着させようという強い意思が読み取れ、前田守一の作品は石子に「現代と言うこの複雑怪奇な外部現実を的確に捉える為にこそ、我々は、それと対応に形成されてくる内部(有意識的な部分と無意識的な部分)を手がかりにしなければなりません。」(木村卓「絵画の純粋さについての疑問点──前田守一君へ」)と純粋性を追求するあまり具体性を失っていくことに対する批判を受けているが、その隅々まで配慮の行き届いた技巧的な作品の完成度はきわめて高く、そこからは創造、批評、享受の相互連関による芸術的課題の克服を目指す「白」というグループの厳しさが読み取れよう。そのことは石子が伊藤隆史、鈴木慶則らとともに刊行した評画誌『フェニックス』にもよく示されていた。ともあれ、同セクションには、中央で活躍した桂川寛や小山田二郎、中村宏らの同時代作品もあわせて展示されていたが、それらにまったく見劣りのしない高水準の作品が静岡で生み出されていたことに、自身の無知さを恥じつつも大きな衝撃を受けた。


展示風景

 1964年末に石子は東京に戻って本格的な評論活動に入るが、その石子の評論家としての歩みを関連作品、資料によって紹介するのが第2章と3章。
 2章では、ルポルタージュ、ドキュメンタリーから連なる評画への関心。1967年には日本初の漫画評論同人誌『漫画主義』を創刊し、白土三平やつげ義春、水木しげるらを評価し、1970年代に入るとキッチュ論を展開した石子の活動が紹介されていた。アートとサブカルチャーというジャンル分けを無効化し、生活と密着した芸術のあり方と現代人の欲望、本質を映し出す俗悪なオブジェのなかに聖なるものを見出そうとしていった石子。風呂場のペンキ絵、大漁旗、小絵馬、商品パッケージ等々。アングラ文化への接近も含め、過去に府中市美術館で開催された「石子順造的世界──美術発・マンガ経由・キッチュ行」とは大きく異なるアプローチで、石子の興味と関心の拡がり、そして思想の深化の過程がコンパクトにまとめられていた。余談だが、このセクションを見ていると、キッチュなオブジェと並んだ横尾忠則や赤瀬川原平の作品が、「時代相」のなかで、どこまでも活き活きと見えていたことを付記しておく。
 3章では、石子の「現代美術」を活動の場とした気鋭の評論家としての側面がクローズアップされる。池田龍雄、中村宏、中西夏之らに関する論考をものす傍ら、宮川淳の論評、ハイレッド・センターによるハプニングと高松次郎、荒川修作による「影」をモチーフにした作品群、さらに赤瀬川原平の千円札裁判等から「現代美術」に対する石子の思想が形作られていく過程が示されている。ハイレッド・センターを論じた「ハプニング以降──物体の無名化から行為の匿名化へ」(『美術ジャーナル』61号、美術ジャーナル、1967)で、ハイレッド・センターのオブジェをとおして、「それは〈行為の匿名化〉の主張であり、表現という〈事〉の〈物体〉への還元といいかえてもいいかもしれない」と記しているが、そうした石子の主張は1966年に「白」から発展して結成された「幻触」にも大きな影響を与えたようだ。そのことは「幻触」の機関誌『幻触記』No.1に「芸術は無償の行為だ。日常の行為と同等の無名性を含んでいる。作品の非実体化を試み、真実を拒否する虚像のかげに触れよう。自己疎外の行為の中に答がある。」とあることからも明らかであろう。そして、「描くこと」と「見ること」の現代的意義を探ろうとした作品が「幻触」を特徴付ける要素となっていった。続く4章では、飯田昭二の一連の鳥カゴ作品や鈴木慶則の絵画の物質と構造をテーマにした作品群、前田守一の描くことと見ることの問題を相対化した《遠近のものさし》シリーズなどが紹介されている。このセクションだけ見ると同時代の高松次郎らの作品との関係性をすぐさま連想しがちであるが、本展の流れを踏まえると、むしろ「白」時代からの石子と作家たちによる密な交流のうえに連なる表現であったことが見えてくるだろう。
 そんな石子が1968年に中原佑介と企画した「トリックス・アンド・ヴィジョン──盗まれた眼」展(東京画廊・村松画廊)は、「見る」ことの曖昧さを突き、視覚が持つ不確かさに主軸をおいた展覧会であった。そのリーフレットに掲載された「絵画論としての絵画」のなかで石子は、「イメージのままのオブジェとか、オブジェとしてのイメージとか、理念である物体、行為である理念とかいう等位、等価の等視(といってもなお不正確であることは、もうわかってもらえたとして)は、逆理的に、絵画を絵画として成立させてきた従来までの視線が、要するに、眼を盗まれる体験であったことを証しはすまいか」と述べ、「絵画は絵画であるその〈こと〉の表象、すなわち絵画の意味は、作家の世界観や美の理念や永遠の人間性などではなくなって、〈絵画ということ〉になろうとする」と従来の近代絵画の限界を示す。代わりに「トリックス」と「ヴィジョン」という括りを提示し、例えば、鈴木慶則と高松次郎の作品をそれぞれに位置づけ、「AND」でつないでみるなら、「そこにイメージのままオブジェであろうとし、またオブジェであるイメージといえる新たなイデーが透しみえてこないものか」と説く。このように石子は、現代人の「見る」という行為がパターンによるものであることを指摘し、「見る」ことの現代的意味と理念を問い直すことで近代芸術を超克しようとした。そして、その先に「もの派」が登場することになる。実際、この展覧会には、いわゆるトリックアート的な作品と同時に、木のかたまりを炭にした成田克彦による《SUMI》のような、もの派的な作品も出品されていた。
 そして最終章の5章で「幻触」と「もの派」の関連性を、作品と資料によって丁寧に検証して展覧会は幕を閉じる。本章で紹介されている1969年から1971年にかけての「幻触」の作品群は、たしかにもの派とのつながりが強く感じられるし、石子が刺激を受け、「幻触」のメンバーに読み聞かせたという李禹煥の「事物から存在へ」という論文の影響ももちろん指摘されているが、もの派につながる運動としての側面にのみ注目の集まる「幻触」の評価を超え、この時期の作品もまた、石子順造と「幻触」の作家らとの長年に及ぶ「創造、批評、享受」の末にたどり着いた自然な展開であったことを本展は静かに、かつ強く主張しているように思えた。


展示風景
撮影=木奥惠三

 ただひとつ気になったのは、静岡という地方を拠点としつつも、中央との密接なつながりを持ち、中央での発表の場も多かった「幻触」が純粋な意味での「ローカル」な美術運動と言えるのか否かということ。中央と地方という構造そのものがすでに近代の呪縛下にあることを考えたとき、石子の反近代的、脱近代的思想が結果として近代という枠組みのなかにあったことを「幻触」もまた体現していたのではなかろうか。
 もう1点、清水という土地において鈴与という企業がはたした文化的役割の大きさも今回再認識させられた。展示では『鈴與文芸』への寄稿や「鈴与美術部」での活動の様子などが紹介されていたが、いまでも港湾の歴史資料を展示するフェルケール博物館や病院や大学、航空会社の運営、さらにはプロサッカーチームの運営支援など、地域に密着した経営を鈴与は行なっている。鈴与に在籍していた石子が清水という街にどんな印象を持っていたのかは今回の展示からは推測できなかったが、結果的に5年で清水を後にし、東京へと拠点を移している。仮に清水で活動を続けていたとしたらはたして「幻触」はどうなっていたのだろう。そんなことを考えることじたいが愚かだとは承知のうえでも、「幻触」が終始静岡に拠点をおいたグループであったからこそ、そんなことをぼんやり考えたりもした。
 ともあれ、本展は地方美術館ならではの取り組みとして、その開催の意義は大きく、なにより丹念な調査と研究の積み重ねによって、知られざる「幻触」の総体を明らかにしたという点において高く評価されてしかるべきであろう。

グループ「幻触」と石子順造 1960-1971──時代を先駆けた冒険者たちの記録

会期:2014年2月1日(土)〜2014年3月23日(日)
会場:静岡県立美術館
静岡県静岡市駿河区谷田53-2/Tel. 054-263-5755

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