2017年11月15日号
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キュレーターズノート

生誕80周年 澤田教一:故郷と戦場

工藤健志(青森県立美術館)2017年01月15日号

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 展覧会において入場者数や収入など目に見える結果ばかりが求められる現在、綿密な調査研究のもとに確固たるコンセプトを組み上げ、隅々まで細かな配慮の行き届いた構成による展覧会を見ると、とても清々しい気持ちになる。派手な展示装飾もなく、空間を埋めることを目的とした賑やかしの仕掛けもなく、むしろ愚直なまでに個々の作品とその連なりによって作家の本質に迫ろうとする。そんな展覧会が「生誕80周年 澤田教一:故郷と戦場」であった。

出発点は三沢の米軍基地

 ヴェトナム戦争の報道写真で知られる澤田教一は1936年に青森市で生まれ、青森県立青森高等学校を卒業後(同級生にはあの寺山修司がいた)、米軍三沢基地内のカメラ店で働きながら本格的に写真を撮り始めている。1961年に上京し、UPI通信社東京支局写真部に入社、1965年にUPIサイゴン支局に赴任し、その年の9月に撮影した《安全への逃避》を含む一連のヴェトナム戦争の写真で翌年のピュリツァー賞を受賞。澤田は瞬く間に世界の「サワダ」となっていく。しかし1970年10月、カンボジア取材中にプノンペン近郊で銃殺され34年という短い生涯を終えることになる。澤田が戦場を駆け巡ったのはわずか5年という短い期間ではあったが、展示を見ると、その濃密な仕事ぶりに改めて驚かされてしまう。いったい何がそこまで澤田を駆り立てたのか。会場を巡るうち、その答えもおのずと浮かび上がってきた。


澤田教一展ポスター デザイン:佐藤謙行

 展覧会開催のきっかけは、澤田が生前自ら保管していた約2万4千点にもおよぶ膨大なネガと関連資料がさまざまな経緯を経て2013年にサタ夫人のもとへ戻り、翌年青森県立美術館に寄託されたことによる。担当の高橋しげみ学芸員が撮影地特定など丹念な調査を積み重ね、さらにはヴェトナムからの留学生にも特定作業を依頼し(そこにはヴェトナムの若い世代に母国の戦争の記録を伝えたかったという担当の想いもあったようだ)、結果、初公開となる105点の写真を含む約300点の作品、資料によって、これまで一般的に知られてきた澤田の仕事にぐっと幅と厚みを増す展示を作り上げた。

 展示はまず三沢時代の写真からはじまる。被写体となるのは青森や八戸の祭りや三沢周辺に住む人々の暮らし。そこに生きて暮らす人々に寄り添うかのような視線と、考え抜かれた構図の妙が光り、アマチュア時代でありながら澤田の非凡な才能が垣間見える。同時期には米軍基地内を撮影した写真も多く残されているが、そこには日本の中の「豊かなアメリカ」が記録されている。基地の内と外での生活の落差が強烈なコントラストとなり見る者に迫ってくるが、澤田は両者を対立するものとして捉えてはいない。この視点は後の戦場写真においても一貫する、澤田の写真家としての「基本的態度」と言える。この展示の導入部は、澤田の写真家としての本質を理解する上で、もっとも重要な役割を果たしていたように思う。


澤田教一 小川原湖 (青森県上北郡東北町)周辺 1955-61年

コントラストの効いた展示

 展示は三沢時代の写真に続いて、ヴェトナム、そして終焉の地となったカンボジアと、澤田の人生の歩みに沿って進んでいく。もともと青森県美の展示空間はホワイトキューブのみならず、土の壁や床の独特な空間を持っているが、さらにはプロポーションの異なる部屋が連続することで、まるで迷宮に迷い込んだかのような印象を来館者に与える。澤田の仕事がほぼ時系列で並べられた今回の展示では、その迷宮がまるで澤田の体内のように感じられ、視覚のみならず身体そのものが澤田という存在の中に入り込んでいくような感覚にとらわれたことも記しておきたい。三沢時代の作品はホワイトキューブの白くまばゆい空間に置かれていたが、そこにはカメラマンとしての独り立ちを決意した澤田の心情と重なるような明るさ=希望が充満していた。しかし次の展示室に向かおうと仕切られた小部屋に入ればそこは一転して闇。プロジェクターで投射されているのは三沢基地内の生活を写した写真であるが、やがて非理性的な戦争という名の「暴力の魔物」と対峙することになる澤田の運命を、「闇」で暗示させる試みのようにも受け取れた。その体験を経て、続く土の空間に足を踏み入れると、そこに展示された1点1点の戦場写真が発する埃や火薬の臭いが土の空間とシンクロして、記録を越えたリアリティをともなって見る者に迫ってくる。ここから先は、取材地点は変わっても延々と続いていく戦争のイメージ。34年の生涯のうち、たった5年という短い期間でありながら、澤田が戦場を駆け巡り、高い熱量をもってシャッターを切り続けた証が、残る展示空間いっぱいに広がっている。今回の展示作品には未発表写真を数カット連続して紹介したものもあったが、視線の移動や構図の取り方などファインダーをのぞく澤田の意識や息づかいまでもが伝わってくる秀逸なアイディアと言え、同時に展示の大きなアクセントにもなっていた。


澤田教一 カンボジア国境付近 1966年


澤田教一 フエ 1968年


澤田教一 コンポンスプー 1970年


展示風景

戦争を撮る側の狂気

 しかし会場を巡るうちに、激烈な戦闘シーンや戦地の惨状、そして人間の悲劇に対して「慣れ」が生じてくる。それに呼応するかのように澤田もまたより鮮烈なイメージを求め、さらに危険な状況へと身を投じていくさまがくっきりと読み取れた。終焉の地となるカンボジアでの取材の直前、1969年の香港を写した作品には文化大革命により大きく変貌する街の様子が捉えられているが、政治をテーマにした作品ではあるものの、延々と続く戦場シーンの中で一服の清涼剤のような印象を受けてしまったこともまた事実である。澤田自身がその取材に満足していなかったことは、戦場写真と比較してクオリティが劣るという点からも明らかであろう。そして再び戦地に赴いた先に訪れる悲劇……。今回の展示では、澤田というひとりの表現者の歩みをとおして、理性ではとらえきれない人間の「狂気」が浮き彫りにされていた。ネガに定着されたイメージだけでなく、カメラを向け続けた澤田自身をも含めた問題として、我々に投げ返されてくる展示であったように思う。
 このように「キュレーション」の本分が存分に発揮された展覧会はさながら良質のドキュメンタリーを見ているようでもあった。ここで思い出すのは、ヴェトナム戦争終結直前の1974年に公開されたドキュメンタリー「ハーツ・アンド・マインズ/ヴェトナム戦争の真実」であろう。ヴェトナムの戦争とアメリカの平穏な日常、前線で戦う人間と戦争を操る人間との見事な対比によってヴェトナム戦争の本質に鋭く迫った作品であるが、今回の展示でも凄惨なイメージの中に、ふとあらわれるヴェトナムやカンボジアの牧歌的風景や人々の日常の暮らしにハッとさせられてしまった。戦争を感じさせない風景や暮らしが戦争と隣接していた現実に、むしろ戦争というものの「違和」が突き刺さってきた。


展示風景

 以上、展示を中心にして澤田教一展を振り返ってみたが、最後に澤田の「作品」から考えたことについても少し記しておきたい。米軍側から戦場に入った澤田であるが、その目は、人間の生命を国家が操作するという「傲慢」に翻弄される人々を─米兵、ヴェトナム人を問わず─平等に見つめていたように感じた。日常が剥奪され狂気に支配される人間性、その弱き存在への共感が澤田の意識の根底にはあったのだろう。その意味において、澤田の作品は戦争のプロパガンダではないし、反戦を声高に主張するものでもないように思う。「展覧会」という装置によって報道から表現へと引き戻されたその写真群は、澤田の美的感覚によって切り取られた「ある戦争」の「部分」の「物語」であったことがわかる。ゆえに「F-100スーパーセイバー」や「A-4スカイホーク」といった戦闘機、兵員輸送車「M113」といった兵器のディテールに見惚れるといった鑑賞態度も決して非難されるべきではない。澤田が提示した戦争、破壊、死の「追体験」から我々にできることは「不可能の可能性」を自覚するくらいであって、そこから戦争をめぐるある一面的な「典型」を語ろうとしたり、ただちに今日的な社会の批判へと結びつけるのは野暮であろう。展示のいざないに応じて澤田の表現世界へ没入していけば、残虐な光景の中にもある種の崇高さ、あるいは美しさが必ずと言っていいほど宿っており、人間存在への根本的な信頼と愛情が澤田の活動の原点であったことが伺い知れる。確かに、そして必死に生きた人々の痕跡と記憶。澤田は戦争という極限下で、狂気や愚かさにかき消されてしまった「人間的なるもの」を再び見出そうとシャッターを切り続けたのではなかろうか、と展示を見て、少なくとも僕はそう感じた。

青森県立美術館開館10周年記念「生誕80周年 澤田教一:故郷と戦場」

会期:2016年10月8日(土)〜12月11日(日)
会場:青森県立美術館
青森県青森市安田字近野185/Tel. 017-783-3000

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工藤健志

1967年生まれ。青森県立美術館学芸員。企画展=「縄文と現代──2つの時代をつなぐ〈かたち〉と〈こころ〉」「ラブラブショー」「ロボットと美術...

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