キュレーターズノート

小沢剛《帰って来たK.T.O.》、「コレクション+ アートの秘密 私と出会うための5つのアプローチ」

住友文彦(アーツ前橋)

2017年09月15日号

 さすが惑星直列の年である。私の周りもメディアも大型国際展の話題に触れる機会が多く、いつも以上に同時代の美術の動向をあれこれ考える材料が目につく。話題を集める作品やテーマに限らず、国内の各種国際展や芸術祭のほとんどが地域に目を向ける似た傾向が、これを機に注目を集めることにもなるだろう。国外にも地域性を強調した芸術祭は幾多もあるし、それらが目指すものの意義は少なくないどころか「グローバル」な時代に課せられている役割は大きいはずだ。したがって問題は「国際化」か「地域振興」かではない。いまや都市部の国際展も含めて、どこでも同じような傾向を持つようになっているのはなぜなのか。大型予算が投じられる事業ゆえに、文化とは異なる役割や成果を過剰に求められ、結果的にどこも同じように文化事業としての深度を薄められているのではないだろうか。2000年以降に顕著になったこうした動向について、そろそろ議論するのに相応しい時期がきているようにも思える。

小沢剛《帰って来たK.T.O.》

 そもそも、こうした国際展の役割が重視されるようになった理由としては美術館や画廊のような旧態然とした制度への批評があったはずだ。特に1990年以降、つまり冷戦体制の崩壊後に国民国家とその植民地主義などの歴史、あるいは独善的な資本主義への見直しが国際展を舞台に大きく進展した。現在、高い評価を受けているアーティストたちには、そうした背景をもとに関心と注目を獲得し活躍している者が数多くいる。そのような近年の経緯を改めて確認しておかないと、いまだに健忘症的に前のめりな勢いに簡単に飲み込まれかねない。実際に1990年以降の国際展が取り上げた社会問題と、私たちが日本の日常生活で感じている出来事は連続しているはずなのに。

 そうした動向を徴候的に、あるいは先端的に示すものはいつもあとから振り返って見出されるものだが、この変化において、より根っこの部分に位置するような作品として見いだせるように思えたのが、今年の横浜トリエンナーレのなかで異彩を放っていた小沢剛の《帰って来たK.T.O.》である。ここでは小沢剛の「帰って来たシリーズ」を今回の横浜トリエンナーレの一部としてではなく、先に述べた1990年以降の美術の動向と結びつけて論じてみたい。

小沢剛《K.T.O.の歌》(2017)ビデオ 11’31” の静止画像

「帰って来たシリーズ」──個人主義と崇高さに対する批判

 このシリーズは、これまで野口英世、藤田嗣治、ジョン・レノンといったすでに亡くなった人物を取り上げ、史実とフィクションを織り合わせてつくり上げた映像と絵画で構成される。《帰って来たK.T.O.》はこのシリーズの最新作である。今回小沢が取り上げたのは、言わずと知れた岡倉天心だ。特に岡倉のインド行きと晩年の六角堂での日々を扱うことで、近代美術史に燦然と輝く業績ではなく、じつに人間的な苦悩や煩悶を描く。それは小沢自身が書いた歌詞に顕著に表われている。その言葉をもとに、インドの職業画家が各場面を表わす絵を制作し、結成3年目の新しいコルカタのバンド、ビハインド・ザ・ミラーが爽やかな曲に仕立て上げ、それを演奏するミュージックビデオ風の映像が上映される。つまり、同時代の異なる文化圏の人々との共同作業によって、過去の人物は観客の目の前に「帰って」くる。共同作業者たちはアーティストに対してあくまでも従属的な立場にならざるを得ないが、それでも知らない人物について小沢と一緒に想像することで、亡霊を呼び戻すような表現の実践を行なう。まるで映画や演劇のように集団で制作するのは小沢の作品の特徴とも言える。それから、偉人やスターとして崇めたてられる人物が持つ崇高性を、軽妙でユーモラスな物語と語りによって観客と同じ地平の等身大の姿に変えてしまう手法もお馴染みである。このように個人主義と崇高さに対する批判がかなり明確な方法で示されているのが「帰って来たシリーズ」の大きな特徴である。

小沢剛《帰って来たペインターF》油彩、カンヴァス、150x250cm

小沢剛《帰ってきたDr.N》(2013)インスタレーション風景
ヨコハマ創造都市センター[写真=木奥惠三]

 しかし、一方でキッチュで時代錯誤的な感覚が前面に出ているために、こうした表現の戦略性が伝わりづらい面もあるのではないか。特に作品を構成しているものは、詩句、絵看板、楽曲と複合的であり、それらをローカルな場所で出会う人たちとのあいだで結びつけているため、もともと大きな統合的なプランがあるというよりも、一つひとつの細部としての出来事が連続していくことで制作される。その散漫さに委ねて鑑賞すると、そこかしこに偶発的な断片が内包されていることに気づくのだが。映像、絵画、音楽の制作を通じて知り合った人たちと、かつて実在した人物と架空の物語を共有する試みには誤解や誤読も伴うだろう。その解釈を許容しながら、おそらく作品の細部はあちこちへと蛇行したのだろうから、けっして見やすい作品ではない。しかし、それが歴史から著名人を召喚する小沢の手法なのである。

絵看板を描いた職人と完成した作品
小沢剛《帰って来たK.T.O.》(2017)油彩、カンヴァス、150x250cm

欧米と非欧米の二重構造

 この集団的で領域横断的な特性は、小沢も参加した「移動する都市」展(1997年から世界各地を巡回)の頃から数多く現われたものだったと言える。1990年以降の現代美術において欧米のアーティストであれば歴史を意識しそれを乗り越え、非欧米圏のアーティストであれば民族を意識してそれを乗り越えることが大きな関心事だった。村上隆をはじめ1990年代前半から中頃に日本の現代美術が1980年代という近過去を未来へと投影するような作品を多く生み出したのもそうした時代背景があった。「歴史以後」を生きるために、「テクノロジー」や「サブカルチャー」という新しい民族性を仮構するようなふるまいである。しかし、その欧米と非欧米の互いに相容れない、しかし共犯的とも言える二重構造は、2000年以降に解消するべきものとして批判の対象となっていく。

 この30年ほどの視点をもう少し狭めてみると、近年、難民や経済危機といった企画テーマについてあれこれ言及することが急激に増えつつあるが、それと並行して2000年以降に西欧中心の価値観の失効がこれまで理念的に語られてきたこと以上に進行しつつあり、それがいっそう現実の問題として感じられるようになっている。難民問題から気候変動といった関心を集めるテーマに、近代以降の西欧社会が負う責任を問う姿勢が随所にみられる。それは、例えば、近年話題を集めた出版物にすでに明晰に語られており、各展覧会が掲げる問題提議を通じて、その意識ははっきりとした輪郭が見えるようになってきている。まずハンス・ベルティンクが『イメージ人類学』(平凡社、2014[原著2001])によって大きく時間軸を拡張させ、かつ文化の領域を超えた視野を用いることで異なる文化間の交渉を理論化することが可能になった。パメラ・リーは『Forgetting the Art World』(MIT Press、2012)で特定の発言や文化資本を持つ限定されたプレーヤーたちによる閉じられた「アートワールド」を、政治/資本/情報との関係から、詳細な作品分析を通して、開放され、かつ現実の世界と結びついたものとして描き直した。さらには継続的なレクチャーとアーティストの介入を組みわせたプロジェクトの記録でもある『Former West: Art and the Contemporary After 1989』(MIT Press、2017)は「旧東」に対応させる概念として西欧を相対化させるために「かつて西側と呼ばれた地域」における地政学的な変容を検証している。こうした議論によって前述した二重構造は溶解しつつある。

硬直化する歴史を揉みほぐす

 今回の横浜トリエンナーレで小沢とともに参加していた40代以上のアーティストには、1990年代から2000年代のパラダイムへのシフトを「かつて西側と呼ばれた地域」における特権的なアートワールドの内側で乗り切った者が少なくなかった。それに対して、小沢は「アジア」「近代」という自分の根っこを掘り下げるような作品によって、かえって地政学的な変容における重要なポジションを獲得しているように思えるのである。大きなうねりのような変化と20年以上向き合い続け、かつアイデンティティや地域性という重さを、洒脱なユーモアで振り払う小沢の作品は、かつて世界の重苦しさをイタロ・カルヴィーノが『アメリカ講義』(朝日新聞社、1999[原著1988])で「新たな千年紀のための六つのメモ」で真っ先に挙げた「軽さ」という形容がよく似合う。小沢の作品は、アートワールドではなくアマチュアのプロダクション、仮構された民族性ではなく具体的な人の関係性によって、変容に対する抵抗によって硬直化する歴史の見方を揉みほぐしている。国際展について議論するためには、まず作品を詳細に見ていくことから考える必要がきっとあるだろう。

ヨコハマトリエンナーレ2017 島と星座とガラパゴス

会期:2017年8月4日(金)〜11月5日(日)
会場:横浜美術館/横浜赤レンガ倉庫1号館/横浜市開港記念会館 地下 ほか
神奈川県横浜市西区みなとみらい3-4-1

学芸員レポート──多様な価値を認めるための鑑賞体験をつくる

 学芸員や作家の仕事をしている者ほど、美術館や博物館の展示空間をはじめて体験するときの新鮮な感覚を忘れがちかもしれない。私たちは、日常のなかで仕事場、家庭、学校、あるいは消費空間や移動空間などを行き来しながら、ライブハウス、劇場、図書館、公民館などの文化施設を利用する。こうした経験のなかには、メディアや知人を経由して伝わる情報が多く介在している。それによって好奇心や嫌悪感を感じたり、活力や向上心を与えられたりする。それはまさに疲労や倦怠を積み重ねるようなあちこちに彷徨う精神の状態だ……。

 私たちが想像する以上にさまざまな情報や経験が鑑賞行為のなかに折り畳まれていることは、じつは社会学的な関心が強くない限り学芸員の仕事と結びつける者は多くない。実際、こうした事実は見過ごされがちではないだろうか。あるいは、それは私がこれまで看過していただけのことだろうか。

 学芸員の多くは展示空間を際に、こうした情報環境に意識を向け、作品の配置やタイトルや解説の掲示に気を配っている。それは企画の意図や作品の情報がなんとか伝わるようにレイアウトやデザインを考え、そして満足のいく学びが実現するように丁寧に文章つくり込むことだ。つまり企画意図から情報の受容までを一貫したかたちで整えるわけである。それが首尾よく実現すれば満足度もかなり高い。ところが、前述したような多種多様な情報や経験を抱え込んだ鑑賞者の意識はじつに散漫にならざるを得ない。統合的な鑑賞経験を前提につくり込む企画側と散漫な意識によって鑑賞する側とのあいだには、どのようなコミュニケーションが可能なのだろうか。

 私がこのような関心をもったきっかけのひとつは、美術館の設計に関わった経験である。どのような立地で、来場者が前後にどのような風景や行動が想定されるのか。入り口へのアプローチが長いのか、短いのか、あるいは階段を上がっていくのか、下がるのか、そうした経験もおそらく大きく鑑賞心理を左右する。最近だとショップやカフェといった消費スペースと展示室の関係が密接か、適度な距離か、隔たっているかも影響を与えるだろう。それからネットも含めて来場する際に情報が与えられ、入り口や展示空間において形式的な対応や親密な対応に接し、ほかの観客を見る/見られるといった関係性が鑑賞経験に大きく関与する。

 それからもうひとつの要因は最近のことで、アピチャッポン・ウィーラセタクンの《フィーバー・ルーム》を見たことである。劇場の舞台上と客席を反転させる構造によって見事に観客の主体性への制度批評を感じさせたが、踊ることも動き回ることなく固定された観客へ強い光を浴びせる演出には不快で暴力的な印象をもったが、もともと見に行かないつもりだったのに、私が劇場へ足を運んだのは、スペクタクル的な演出を絶賛するネットを中心に出回った反響に触れたからだった。いったい私たちの鑑賞行動はどのようにかたち作られているのだろうか。そこは広報やマーケティング、あるいは正しい作品理解を目指す努力以上に、鑑賞体験の深淵に非常に興味深い問題があるように思えたわけである。

「コレクション+ アートの秘密 私と出会うための5つのアプローチ」と「FOLKS」

 こうした関心を実際にアーツ前橋の事業として反映したものに、この夏の展覧会「コレクション+ アートの秘密 私と出会うための5つのアプローチ」展と鑑賞のためのウォーミングアップツールと称しているタブレット用アプリ「FOLKS」がある。一般参加者と講師の山城大督と一緒に、美術館における鑑賞について、実際の体験を詳細に交換し合うことにかなりの時間をかけ、学芸員ともアーティストのとも違う、いわば鑑賞体験のフィールドワークをもとに「FOLKS」の第一弾ができあがった。それを利用してもらいながら、当館や近隣館や個人コレクターの収蔵作品について、素材や技法をじっくり見て、自分自身の身体感覚に意識を向け、作品がおかれた歴史や社会といった背景を知り、そして多様な価値を認めるための批評性をもとに鑑賞していくような構成の展覧会である。

バックヤードツアー風景(2017年8月5日)
作品は木暮伸也《景織002》(2011)所蔵=アーツ前橋

島地保武《正午》(2017)映像118分、ビデオカメラ、ウレタンマット

展示室内の「FOLKS」体験スペース風景

 しかし、これは鑑賞体験の探究のほんの序章にしかすぎない。まだまだやれることは多い。この関心を深めていくことは、作品の分析のみならず、空間デザインや教育普及など幅広く学芸員の行なっている仕事を理論的に理解していくことにつながるのではないか。もちろん、それは展覧会を何度もつくっていけば分かることに違いなく、同じ専門を超えた共同研究の可能性も期待している。

コレクション+ アートの秘密 私と出会う5つのアプローチ

会期:2017年7月21日〜9月26日
会場:アーツ前橋
群馬県前橋市千代田町5-1-16/Tel. 027-230-1144

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