2018年11月15日号
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キュレーターズノート

第10回 恵比寿映像祭「インヴィジブル」/ビルディング・ロマンス

能勢陽子(豊田市美術館)

2018年03月01日号

10回目の開催となる恵比寿映像祭のタイトルは、「インヴィジブル」である。視覚芸術のなかでも、基本的に可視のものを対象にする写真や映像は、逆説的に見えないはずのもの、存在しないはずのものを照射し、視覚の限界やそこからこぼれ落ちるものに意識を向けさせる。「インヴィジブル」は、写真や映像が誕生した瞬間から、影のように背後に存在してきた重要なテーマである。

第10回 恵比寿映像祭「インヴィジブル」

その象徴といえるのが、「コティングリー妖精事件」として知られる写真だろう。これらの写真は、1917年から1920年にかけて、イギリスのコティングリー村の二人の少女によって撮影された。ヴィクトリア朝の衣服を身に付けた妖精が、活き活きとした姿態で少女の前に姿を現わしている。イギリスでは、心霊主義が台頭した19世紀後半から、霊の存在を証明する心霊写真が注目を集めるようになった。コティングリーの妖精写真もその流れにあるが、「シャーロック・ホームズ」シリーズの著者として知られるコナン・ドイルが、その信憑性を保証し世に広めたことで、後々まで伝わることになった。心霊写真は、写真が「真正さ」の証しとして、「見える」ことがすなわち「ある」ものとして認識されることを知らせる。ある妄想が、写真の確かさを支えに、個人の精神現象を超えて世間に伝播し、人々の心の中に入り込む。それは、私たちがいかに見ることを中心とした世界に生きているか、またそうして構成されている現実がいかに不確かなものかを告げるだろう。これらの妖精写真は、後に捏造であることが、当の少女の告白によって明らかになる。1/50のシャッタースピードで撮られた写真は、身じろぎしないようにしていたはずの少女はややブレていて、踊ったり跳び上がったりしている妖精の方は、か細い肢体や薄い羽根にもかかわらず、くっきりと明快に写っている。それは、少女が常に動き続ける身体を持ち、一方の妖精が本の挿絵の切り抜きからなっているという、あられもない事情による。しかしその写真は、少女の生きている(いた)時間と、妖精が存在する無時間を、鮮明に対比させる。常に動き続ける人間の目では見ることができない無時間の中の妖精は、一瞬を留める写真により、初めてその姿が捉えられたのである。後に老女になった少女が最後の1枚の写真だけは本物だと語ったそうだが、そんな逸話も含めて、コティングリーの妖精写真は今も魅惑的である。

コティングリー妖精写真および関連資料 
《赤ちゃんの上を飛ぶ妖精たち》(撮影者、撮影年不詳)

ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダの《無題》は、アメリカ西海岸を思わせるプール付きの庭で、世代の異なる三人の男性が卓球をしている様子を映し出している。余暇を楽しんでいるようだが、ヘッドフォンを着けて会話を聞くと、各々が自分より若い世代の芸術を慨歎しているのが聞こえてくる。美術の歴史のなかで「ある」イズムがそこまで重要なものとは思えないとか、コンセプチュアル・アートが概念の創出ではなく単なるイメージの流用になり形骸化してしまったとか、そんな嘆きが、まるで球の往還のように交わされている。日本語吹き替えの声の調子は、かつてテレビで流れていたアメリカのドキュメンタリー番組を彷彿とさせ、皮肉なおかしさを助長する。その映像は、実在する三人のコンセプチュアル・アーティストたちのインタビューから抜粋したものを脚本化し、映画製作を委託したものだという。どんなに作家性やオリジナリティーが不問の時代になったと言われても、コンセプチュアル・アーティストでさえ、どうやら作家の自意識や時代の流れに抗うことは難しい。現在の美術状況にも置き換えうる、絶妙なアイロニーとユーモアを交えた作品であった。本作は会場の中央に置かれているため、そのままヘッドフォンを着けて場内を歩けば、他の作品の前でもその話が聞こえてくる。それが故意なのかそうでないかはわからないが、この作品は美術やそれを支える制度、つまりその展覧会会場で有効に機能するのだった。

ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダ《無題》(2018)
第10回 恵比寿映像祭「インヴィジブル」展示より[撮影:新井孝明]

ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダ《無題》(2015)[作家蔵]

エルカン・オズケンの映像は、「インヴィジブル」と題された展覧会の中で、むしろ極めてヴィジブルである。シリア北部の町コバニで暮らしていたひとりの少年が、ISISから逃れてトルコに行く際に目撃したことを必死に伝えようとしている。しかしその少年は耳と口が不自由なので、身振り手振りで懸命な表現を試みている。そこから推し量ることができるのは、残虐な行為を目撃したこと、そして凄まじい恐怖である。この少年が体験したことを正しく知ることはできないが、私たちがそこから受け取れるものがあるとしたら、それは視覚を通した情報のみである。ドキュメンタリーと映像作品の区別がほとんどつかないだろう本作には、《ワンダーランド》という皮肉なタイトルが与えられており、幾重にも見えてくる残酷さに(作家の意図は違ったとしても)、収まりのつかない気持ちになる作品であった。

エルカン・オズケン《ワンダーランド》(2016)[作家蔵]

 「不可視」というテーマは、芸術全般に関わる根本的な問いだが、特に写真や映画という分野では具体的かつ鮮明に逆照射しうるものになるだろう。これまで挙げた3作品は、どれも優れて、「見えない」ことと視覚芸術の関係を鮮明にし、またその本質を問う。しかし「不可視」ということが、対象が見えないこと、歴史に埋もれて知らないこと、また他者性の問題など、どれも重要ながらさまざまに混在していて、焦点を掴みがたいように感じられた。しかし本映像祭では、これまでより多くの映画上映やパフォーマンス、トークイベントが行われており、そのうちの映画1本しか観られていないので、全体を評することは難しいのかもしれない。ちなみに唯一観た映画は、荒木悠とダニエル・ジャコビーによる、ロッテルダム国際映画祭で受賞したばかりの《マウンテン・プレイン・マウンテン》である。ばんえい競馬場を舞台にした映画だが、馬がそれとわかる形では一度も登場せず(まさにインヴィジブル)、運と偶然と資本がゲームのように回転して、しかし観れば観るほど意味は逃れて真空に宙づりにされるような、そんな奇妙な感覚をともなう映画であった。テーマ性にこだわれば流れや構成が気になるが、個々の作品には優れたものがいくつもある、そんな今回の恵比寿映像祭だった。

「ビルディング・ロマンス」豊田市美術館

現在豊田市美術館で、企画した「ビルディング・ロマンス」展を開催中である。本展では、「ロマンを打ち立てる」というストレートでロマンチックな造語を冠して、20世紀以降の美術が脱ぎ捨ててきた文学的想像力や人間的な重さを、再び現代の表現に見出そうとしている。ただしそれは、国家や民族など大きすぎるものを指向した、啓蒙主義時代のロマンではない。そこでは、家族や恋人、土地など、身近なものとの関わりのなかから、決して小さくない物語が掬い出される。出品作家は、飴屋法水、スーザン・ヒラー、危口統之と悪魔のしるし、志賀理江子、アピチャッポン・ウィーラセタクン。この世界は、決して淡々と続くだけの退屈な日常ではない。本展の作品は、虚構を通してこそ触れることができる、ざらりとした手触りを持った本当の物語である。今ここでしか観れない作品も多いので、ぜひ足を運んでほしい。

志賀理江子《予感と夢》(2018)[写真:谷川寛]

危口統之と悪魔のしるし《搬入プロジェクト #22 豊田市美術館》(2018)[写真:谷川寛]

スーザン・ヒラー《Lost and Found》(2016)
©Susan Hiller, Courtesy Lisson Gallery.[写真:谷川寛]

飴屋法水《神の左手悪魔の右手》(2018)[写真:谷川寛]

アピチャッポン・ウィーラセタクン《花火(アーカイヴス)》(2014)

©Apichatpong Weerasethakul courtesy of Kick the Machine and SCAI THE BATHHOUSE

[協力:アンジー・ナオコ/写真:谷川寛]

第10回 恵比寿映像祭「インヴィジブル」

会期:2018年2月9日(金)〜2月25日(日)
会場:東京都写真美術館ほか
   東京都目黒区三田1-13-3 恵比寿ガーデンプレイス内/Tel:03-3280-0099
詳細:https://www.yebizo.com/jp/

ビルディング・ロマンス

会期:2018年1月20日(土)〜4月8日(日)
会場:豊田市美術館
   愛知県豊田市小坂本町8-5-1/Tel:0565-34-6610
詳細:http://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/2018/special/buldingRomance.html

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