キュレーターズノート

京都市立芸術大学の版画専攻の卒業制作展より

中井康之(国立国際美術館)

2018年04月01日号

定点観測的に毎年開催される美術大学・芸術大学の卒業制作展を見ている者は少なくないだろう。私もその一人である。特に、このレポートでも何回か取り上げてきたように、関西圏に於いて京都市立芸術大学作品展は注視せざるを得ない質を維持し続けている。一時期、東京のよく知られたコマーシャル・ギャラリーのギャラリストが跋扈して青田買いをしている、というような噂も飛び交った。ことの真相はともかく、今でも同展で美術関係者と出会うことはままある。

今年も同大学作品展に足を延ばした。例年同様、油画専攻と彫刻専攻を中心に注目すべき表現を数多く見ることができた。特に彫刻専攻の展示で、薄暗がりの大きな鉄工場のような空間に、大きな一枚のモノリス状の物体による作品にはある懐かしさを覚えた。その作品の淡いピンクがかった灰色をした表面を形成しているのは、薄い肉片だった。1970年代初頭、「もの派」という総称で認識されている、それまで培われてきた芸術表現を否定することから始まった表現者たちの作品群との近似性を、その作品は感じさせたのである。

版画の領域を拡大する


それにも増して、今年の京都市立芸術大学作品展でより強い興味を抱かせたのは版画専攻に並べられていた作品群であった。例年であれば、同専攻の作品が並べられた部屋では、版画というジャンルの作品が並べられているという見方で看過していた。これは版画表現という狭い領域に閉じられた表現しかなかった、という意味ではない。例えば、過去の作品から思い起こせば、キュビスム的な方法で一つの物を複数の視点で捉えた画像を立体的に組み上げた作品や、シルクスクリーンを無数に積み重ねて精緻な立体作品に仕上げるなど、版画という表現領域の限界に挑む優れた作品を数多く見てきた。但し、それらは逆にいうと版画という表現領域に、ある意味囚われているとも感じていたのも事実である。

今回、版画専攻の展示で最初に注目したのは、比較的広い部屋に展示されたモノクロームによる大小の版画作品群であった。黒い画面に白く刻まれたさまざまな表情をみせる無数の線の集積による表現は、あまりにもストレートな表現ではあった。しかしながら、単純明快な方法であることによって、作者がその限られた条件の中でどのような表現が可能であるかという課題に挑んでいるであろうこともすぐに了解された。大画面の作品は、《Melting-fusion》、《Melting-hang》、《Melting- droop》、《Melting-mixt》というタイトルが付けられた4点で、作者である西村涼によれば、水の中にインクのような流動体が広がっていく様子を描き出していたものだという。


西村涼(左から)《Melting-fusion》、《Melting-hang》いずれも2018



西村涼(左から)《Melting- droop》、《Melting-mixt》いずれも2018


西村が用いている技法はドライポイントとエングレーヴィング、要するに銅板面に先の尖った棒状の金属で削っていくという、とてもシンプルな技法である。ストレートとかシンプルといった単語を西村の作品に対して繰り返して用いてしまったが、そこに表し出されている表現は決して単純には語れない。

水の中に流動体が広がっていく様子を視覚的に捉えることを考えた時に、多くの者はその対象物に十分な光量を与えてハイスピードで連続したシャッターを切るカメラの使用等を考えるだろう。しかしながら、カメラが捉えた水に広がる流動体の表情は、人が肉眼によって捉えたイメージとは異なる。人がものを見る場合、時間軸を伴って視点を移動させながら変化する画像を記憶し総合的に認識するといったキュビスム的な観点ばかりでなく、人は眼では捉えきれない画像の変化の過程を脳で補正して認識するという情報処理を行なっているという。

1970年代、アメリカを起点とするスーパーリアリズムという美術動向があった。あれらは殆どすべてカメラアイが瞬間的に捉えたイメージをカンヴァスに移し替えただけの虚構を描いたものであった。現実感を伴うことがなかったのは、描き出された対象が異国的な光景であったということのみならず、人の生理的な視確認識とは違う光景を表し出していたという理由もあるだろう。いずれにしても、水の中に色の付いた液体が広がりゆく様子を脳が認識するイメージは、カメラが物理的に捉えるイメージとは根源的に一致しないのである。

西村は、あくまでも自分の目の前で繰り広げられる光景を肉眼で捉えて、それを銅板やアクリル板に直接刻み込む手法にこだわる。腐蝕銅版画のような、人がコントロールできない過程が伴う技法は決して用いない。また、紙に鉛筆で描いた線、カンヴァスに筆を用いたタッチ等より、西村の彫り出す線には作家の意図する表情がより直接的に反映することにも注意すべきだろう。線の強弱、線の太さの変化、破線上となったリズムを刻むかのような表現、掠れた線、細かい無数の線が重なり合うようにして生じた霧状の塊……、西村の線の変化には限りがない。黒い画面上に表し出されたそれらの白い軌跡の集合体は、魅惑的な抽象表現自体であり、同時に、われわれが記憶する水の中に広がる流動体の様子を見事に示唆するのである。

同展示会場には小さなドローイングとも言えるようなドライポイントによる小品も同時に展示されてあった。例えばそのなかの《Flowing –fire》というタイトルが付いた作品を見ると、まるでいたずら書きのような簡素なジグザグの線が画面の中央に表されている。西村によればこれらは火が燃えるのを見て、透明のプラスティック板上に瞬間的に、直接ドライポイントで描いたものだという。要するに板に直接刻み込むクロッキーなのである。このような地道な積み重ねが西村の作品の質を保証している。


西村涼《Flowing -fire2》2018


さらに、西村の表現は視覚経験を版表現に移し替えることにとどまらない。例えば、今回の作品展では趣旨が異なるので出品されてはいなかったが、グリッド状に線を書き入れた立方体を主題に数多くの作品をドライポイントによって制作している。言うまでもなく、それらはドライポイントによる線表現の可能性を引き出すための日々繰り返されるレッスンのようなものなのである。


西村涼(左から)《born》、《Reborn》いずれも2017


版画のもつ複数性と間接性


今回の版画専攻の展示では、他にも注目すべき作品が多かった。例えば、武雄文子の銅版画のプラクティスとでも称することができるような大小さまざまな作品群は、自ら描いたドローイングを元にさまざまにコピーを重ねてイメージを作りだし、最終的に出来上がった画像を銅版に転写して作り出したものだという。壁面にはその完成された銅版画作品が飾られ、その前のテーブルにイメージを作り出す過程で最終的には選択されなかったさまざまな断片のようなイメージから拾い上げて銅版画にしたものが整然と置かれてあった。表現手法に偶然性を利用している点で、先の西村作品とは違うように感じるかもしれないが、制作プロセスを同時に提示する手法が西村のクロッキーのような小品と並べて展示する方法と近似していた。双方とも小品の存在が本作品の存在を補完し、その表現を際立たせていた。


武雄文子 展示風景


また、ルー・ウェイ・ニーの古いポストカードを用いた作品。カードに描かれたイメージをなぞるようにシルクスクリーンを用いて描き出されたそれらの表現は、小品ながらも確かに新しい風景を見せてくれていた。


ルー・ウェイ・ニー 展示風景


今年の京都芸大作品展の版画専攻の変化が気になり、先の西村涼の指導教官である大西伸明に話をきいた。大西は同大学同専攻の出身ではあるが、彼が作家として認められるようになったのは立体的なオブジェ状の作品を生み出すようになってからである。但し、大西が生み出すオブジェ状の作品は、その物体としての実体性を感じさせないという意味では物体をそのまま提示しながら作品とした作家の系列には入らないことは言うまでもないだろう。

彼は版による複数性の論理を立体物に展開した。立体物を型取りしてその雌型から立体物の形態を引き出して彩色を施して作品としている。例えば大西の《Doramukan》という作品は、上部がリアルに表現されながら下部は引き出された形態の素材であるアクリル樹脂がそのまま露出し、自らが単なるオブジェではなく、ある物体から転写された虚像であることを主張するのである。



大西伸明《Doramukan》2016 [撮影:豊浦英明]


大西伸明(左から)《Koppu》2015、《Lovers Lovers #4》2011 [撮影:豊浦英明]


大西が学んだ京都芸大の版画専攻では、版画の特性が複数性と間接性にあることが繰り返し唱えられていたという。今でも同大学同専攻のホームページには、その2つの特性の重要性が強調されている。実際、大西のオブジェ状の作品も、アクリル樹脂という素材を通じて、その2つの特性を兼ね備えている。そのような意味に於いて大西の立体作品は、版画としての性格を併せ持つと考えることができる。おそらくは大西は、自らの作品がそのような論理によって成立していることが認められることによって、京都芸大の版画専攻で教鞭を取るようになったのであろう。

大西を教えた世代の版画作家たちは、版画概念の拡大というテーゼを掲げて、画面サイズの巨大化や、さまざまな素材への印刷、あるいはそれらを複合的にインスタレーション化するなど、その表現手法は肥大化していった。そのような状況を客観視し、大西は旧来の版画技法からは脱して独自な表現手法を取った。そのような判断を経ながら、先達から申し渡された複数性と間接性というテーゼを純粋に取り込み、同時に、大西の立体表現を独自な表現として成立することに資したのである。

大西は、彼を指導した世代が版画の根本原理を導き出しながら、その表現を拡大させていった過程を客観視し、また、自らの経験を糧として後身の指導にあたっている。先に取り上げた西村に対しても、版画の基本概念ばかりでなく、西村が問題とすべき課題を、ハードルを少しずつ上げるようにしながら指導しているという。その効果を我々は今回の作品展で垣間見ることができた。情報技術が高度に発達した現代に於いても、版画を技術と捉えずに、その概念を尊重することによって、芸術大学に版画専攻が存在する意味を維持してきたのだろう。その伝統が、精神的な形で息づいていることを今回実感した。

2017年度 京都市立芸術大学作品展

会期:2018年2月7日(水)〜11日(日・祝)
会場:京都市立芸術大学
京都市西京区大枝沓掛町13-6/Tel. 075-334-2220