2018年11月15日号
次回12月3日更新予定

キュレーターズノート

ランドスケープ|ポートレイト まちの写真屋の写真論

松本篤(AHA!/ remo)

2018年06月15日号

目の前の一瞬のために
シャッターを切り続けてきた
“まちの写真屋さん”。
いま、あなたの眼に映っているのは
どんな風景、どんな人の営みですか。
あの日が訪れるその前とその後、
残す営みのこれまでとこれから。
これは、記録の裏側の記録──。


ランドスケープ | 1.風景 2.風景写真 3.横向きの
ポートレイト | 1.肖像 2.肖像写真 3.縦向きの



はな子から、写真館へ



『ランドスケープ|ポートレイト まちの写真屋の写真論 Vol.1』
(A1ポスター版/八つ折り/両面カラー)




移動動物園事業の一環として、はな子が上野動物園から井の頭自然文化園に初来園した際の記念写真(昭和25年10月)。武蔵野市民からの強い要望を受け、はな子は昭和29年に単独で同園に移動する。


2017年9月、『はな子のいる風景 イメージを(ひっ)くりかえす』が完成した。東京の井の頭自然文化園で長らく飼育されていた1頭の象と、それにまつわる人々の69年間に光をあてた本書は、市民から寄せられたはな子との記念写真169枚、写真の撮影日に記された飼育日誌、提供者による106の言葉など、公私の記録が部分的につながり合いながら構成されている。本書の冒頭に掲載されているのは、収録された写真のなかでも最も古い時期に撮影されたものである。提供者は、昭和20年から昭和32年の12年間、井の頭自然文化園内の公舎で生活していた。写真は、園の職員であった母のアルバムに保管されていた。

1950.10.13
文化園中央の孔雀園の前で撮ったと思われる。写っているのは嘉悦園長を中央に獣医、飼育員、造園や事務職員で、少人数の家族的な環境だった。前列左から3番目が私、5番目が母、写真に写っている人達の名前はほとんど記憶している。飼育員は園内の公舎(6軒長屋と3軒長屋)に居住し、動物や鳥類などの飼育に関わっていた。この写真も母のアルバムに保管されていた。撮影者は園内専属の宇都宮写真館(帝都電鉄・井の頭公園駅前)。当時は象舎(キリン小屋)と孔雀園の間に東屋があって、そこに写真屋さんが詰めていて、記念写真を撮っていた。(『はな子のいる風景』付録小冊子から抜粋)

筆者は本書を制作する過程で、人と象が写る風景写真とも肖像写真ともみえる膨大な数の写真を1枚ずつ丹念に眺めた。そして、ランドスケープでありポートレイトでもあるこれらが、いわゆる一般市民によって撮影されたものだけでなく、写真館という職業的存在によって記録されていたことにつよい興味を持った。誰もが写真を撮ることができるようになった現在、残すことのこれまでとこれから、写真館のこれまでとこれからをあらためて考えてみたいと思った。記録に残す人々の営みを記録に残したい、と思った。



菊池さんのアルバムに収められていた写真。
ご自身が運営するブログにアップするためにスキャンした直後、地震が起きる。原本は津波によって流された。[提供:菊池賢一]


ファインダーを覗く、そのうしろ姿を覗く



[提供:菊池賢一]



[提供:菊池賢一]


岩手県の釜石市・大槌町を拠点とする『復興カメラ』という取り組みに2年前から関わっている。震災からの復興の過程を住民みずから記録する活動だ。2016年9月、ちょうどはな子の写真をひろく募集していた頃にこんな話を聞いた。「釜石には有名な鉄鋼の会社があるでしょ。昔から鉄が採れた場所だから。あそこの会社の保養施設が、井の頭の近くの三鷹にあったんです。だから、ここら辺の地元の従業員は、まとまった休みがもらえると家族と三鷹に行って、近くの動物園にも行っていたと思います。津波で流された持ち主不明の写真アルバムが、釜石市や大槌町の役場に保管されているんです。たぶんそのなかに、はな子と一緒に撮った記念写真もあるんじゃないかな」。

『復興カメラ』の初期メンバーだった光陽写真の店主、菊池賢一さんにはじめて会ったのは、2017年の8月。津波に流された家と仕事場の再建をめざし、仮設の商店街で営業を続けられていた。1時間の取材時間のあいだに、遺影の仕上げ、家族アルバムの受け渡し、工事現場の写真の出力など、人の暮らしにまつわるさまざまな局面に、写真を介して接しておられた。「(震災から7年が経とうとしている)いまの自分の状況を何かに残しておきたいなあ」。ふと、呟かれた。あの日が訪れるその前もその後も、記録を残すことに深く関わってきた“まちの写真屋さん”。いま、彼らの眼に映っているのは、どんな人、どんな風景なのか。写真館の自画像、写真館のある風景を記録に残すプロジェクト『ランドスケープ|ポートレイト』を、被災地から始めることに決めた。
2018年2月に行った光陽写真のインタビューは、前回の取材場所と同じく、仮設商店街の仮店舗内で実施した。賢一さんの母である満子さんにもご同席いただいた。



──写真館はいつごろから始められたんですか。

賢一 ライト写真館という屋号で、大正生まれのお祖父ちゃんが釜石で始めたんだ。いつ始めたのか、どんな経緯で始めたのか、はっきりとしたことは知らない。腕は良かったらしい。呑んべえだったっていう話もよく聞いたけど。

満子 お義父さんは小さい頃から絵が上手で、仙台にあった絵の学校に入ったらしいの。でも周囲からは「食べていくのに、絵なんて無理だ」って言われて。絵の技術を学んで、鉛筆で描くような遺影を描いたり、軍人さんから掛け軸を頼まれて肖像画を描いてたらしい。昔の絵描きは写真館のようなこともやってたから。
戦時中は仙台の軍隊で、写真の仕事をやってたみたい。写真班みたいな立場だったのかな。各戸の仏壇に写真をあげてたらしい。お義父さんあんまり話さなかったから、詳しくは私も聞いてないけど。仙台が空襲に遭った時に、お義母さんは爆弾に直撃して亡くなった。お義父さんは釜石に戻ってきて、戦後、ライト写真館を始めた。しばらくして、また仙台で写真館を始めて、ケンが生まれてすぐに亡くなった。

賢一 お祖父ちゃんは仙台と釜石を行ったり来たりしてたんだね。お祖父ちゃんの記憶は全くないけれど、体中をなめられまくったっていう話は聞いたことがある。生まれてすぐに、仙台のお祖父ちゃんのところに行ったらしいの。すごく喜んだみたいで、お風呂からあげてもらった後にベロベロなめられたみたい。

満子 そんな時にお客さんが来たの。証明写真が欲しいって。そしたら「うちはそんな小さいの焼かねえ。畳1枚分ぐらいに伸ばすんだったらやってやる」って追い返しちゃった。みんなびっくりして、主人も「お客さんになんであんな言い方するんだ」ってお義父さんを質したら「後でまた来るから」って。そしたら本当に後で来た。

賢一 僕のお父さん(先代)は小さい頃からライト写真館でお祖父ちゃんの手伝いをしてた。中学生の頃からお祖父ちゃんの代わりに集合写真を撮りに行ったり。その頃はガラス乾板の時代だね。写真に囲まれて育ってきたわけだから、腕はよかったと思う。盛岡の写真館にもカメラマンとして呼ばれて働いていたこともあった。でも先代は、ライト写真館を継いだわけじゃなくて、あらたに光陽写真という写真館を始めたわけ。年配の人からはいまだに「よぅ、ライトさん!」って声かけられるけどね。〈つづく〉

(『ランドスケープ|ポートレイト まちの写真屋の写真論 Vol.1』より)



先代の写真。津波に流された家屋の中から見つけ出した。[提供:菊池賢一]



写真館の自画像



震災前の写真館。[提供:菊池賢一]




地震が起きた時、菊池さんは港で撮影していた。まさに揺れている瞬間が写真におさめられている。[提供:菊池賢一]


──光陽写真は、いつから始められたんですか。

賢一 昭和43年。僕が生まれたのが昭和45年3月だから、僕が生まれる2年前。先代は色にも厳しくてね。お店を始めた頃は、釜石市内に富士フイルムの現像所があって。お客さんが焼き増ししたい写真を持ってくると、現像所でまず焼いてもらって、それをさらに加工してた。でも、ちょっとでも焼きが悪かったら電話して「やり直し」ってひと言だけ言ってガチャンと切ってた。

満子 ふだんは優しいのよ。でも確かに仕事面では厳しかった。他の写真屋さんは、出来上がって来た写真をそのまま出すことが多いらしいんだけど。ウチは違ってて。もし色が良かったとしても、斑点とか気泡が少しでもできてたりすると全部スポット修正するの。鉛筆なめながら、ネガに直接書き込んでいたね。

賢一 面相筆(めんそうふで)みたいな細い筆でもやってたね。家が仕事場だったから、そういうのはよく見ていた。乾燥機でパリパリになった写真がいっぱいでてきたり、水洗いしている写真がズラリと並んでいたり。それをまたいでよく怒られた。
フィルムの時代って画が反転してるネガが主流でしょ。店によって色の出し方が違うから他店と差がつきやすい。だから、あそこに持っていけば綺麗に出してくれる、とか、ここは安い、とか、差別化があったんだと思う。今はデジタルで合成したりするけど、当時は暗室でしてた。先代が仕上げた肖像写真は見ればわかるね。額装された写真のウラにも、ちゃんと光陽写真ってサインしてある。

──菊池さんは、いつ、先代からこのお店を継がれたんですか。

賢一 僕は子どもの頃から、好きなことをやれって言われていて。だから、小さい頃に写真屋を手伝ったことがない。僕、釜石に帰るまでは、臨時で学校の先生をやってた。でも、長男だし、家業を継がないといけないのかなっていうのは頭のどっかにあって。とはいえ、正直なところ、先生やってる時は具体的には考えてなかった。
2000年頃かな、携帯電話に写真機能が付き始めた頃に、先代から言われたんだ。「もし家に戻るつもりだったら、デジタル対応の設備を導入しようと思っている」って。ちょうどフィルムからデジタルへの過渡期だった。それがきっかけで、フィルムは先代がやって、僕はデジタルを分担してやり始めた。プリンタも自家処理するミニラボも店に置いた。それから何もかも、釜石に帰ってから、一から勉強した。
色調整してプリントを焼くでしょ。先代がそれを見て「これ、ちょっと青いな。これはちょっと赤いな。やり直し。やり直し」。最後には、どうすればいいかわからない状態になって、動けなくなるくらい。「お母ちゃんの方がプリント上手いなあ」ってよく言われながら、修行した。
フィルムの場合は、ネガだから写ったものがすぐに見れない。撮った人か写った人がそこで見たものを頭の中で再生する、記憶をたどる。「ちょっと記憶と違う」とか「そうそう、こんなんだった」とかの感覚が色味に表れてくるんだ。その色味のイメージを掴んで補正できると、お客さんは「きれいだ」って言ってくれる。

満子 他の店で一度現像した写真を焼き増ししに来るお客さんがいるの。そういうの、とても嬉しいの。持って来た写真よりも絶対にきれいにあげてやるって思うもん。全然違うものにしてあげる。「え、なんでこんなに違うの」ってよく言われるのよ。

賢一 逆に今はデジタルの時代だから、お客さんがすぐにカメラのモニタやパソコンで見れる。モニタの色と違う、とかそういう反応が多くなってきた。今でこそ、個人でもPhotoshopとかを使って補正したりするけど、写真の良さというか、人の記憶とか感性があんまり活かされていないなあと思うこともある。写真に対する感覚や知識は、遺影を鉛筆で描いてた頃から今まで、連綿と受け継がれてきてるんだと思う。その積み重ねがあるから、この写真屋の今がある。〈つづく〉


(『ランドスケープ|ポートレイト まちの写真屋の写真論 Vol.1』より)




[提供:菊池賢一]



「私が一番いいのにしてね」ってよく言われるんだ




[提供:菊池賢一]





[提供:菊池賢一]


──これまでにご自身が撮影された、あるいは、ご自身が写っている写真の中で、強く印象に残っているものを教えてください。

満子 お義父さんが、生まれてすぐの主人を撮った写真があったんです。木のたらいの中で産湯に浸かっている写真。他にも、主人が子どもの頃に写真館で写した写真。

賢一 思い出の写真は全部津波に流されたけど、たまたま数枚だけ小さい頃の自分の写真がデータで残ってるのがある。2011年3月にスキャンして、ブログにあげた写真だけどね。(作業用のパソコンの画面を指差しながら)この写真なんて、地震の前日の10日に更新してる。僕の小さい頃の写真は、これだけしか手元に残ってない。これは、最初の店の前で写ってる写真。

満子 そうそう。最初は、この店で始めたの。開店した日のことは今でも忘れられない。開店したその日、知り合いやご近所さんを呼んでお祝いをやってたんです。そしたら商店街のお向かいさんが火事になった。みんなで乾杯やってる時に、すぐ目の前が燃えて。それはもうすごかったです。お祝いの席に消防団の人たちもいたの。みんな行かなきゃってことになって、大騒ぎだった。

賢一 二代目のお店も写ってる。

満子 流されたお店。只越商店街に下駄屋さんがあったんだけど、そこを買って、移ったのよね。
これは生まれたてのケンを病室の窓ガラス越しに撮ってる写真。“昭和45年3月19日”の字は、私のだね、たぶん。ケンが病院で生まれたその日から、主人はずっと撮ってたね。

賢一 この水面すれすれの写真は、震災後に撮ったもの。子どもの頃から海が身近だったから、おのずと海岸に行って撮ってる。海に入ると気持ちが安らぐというか、嫌なことが全部海に溶けていく感覚があって。海にカメラを漬けて撮る欲求が気持ちのどこかにあったんだろうな。
これは、店を始めた昭和40年代頃の父が作業場で写っている写真だと思う。地震のあとに、店の跡地で見つけて拾ってきた。
あの日の14時46分は、ちょうど海にいて撮影してた。子どもの頃に港で先代に撮ってもらった写真があって。よく港のほうに散歩に連れてってくれたらしい。その写真を撮ったカメラが家にあったから、そのカメラで同じ場所を撮ったらどんな感じかなって思いながら行ったんだ。そしたら、揺れ出して。家に帰ったらもうめちゃくちゃになってて、それで逃げて、次の日家に戻ってきたらもう店はなかったっていう状態だった。ぐらぐら揺れてる最中の写真もあるよ。

──今、記録に残したい風景や人物はありますか。

賢一 写真って、うれしい時に撮りたくなるんだよね。お祝いだったり、何かあった時に写真を撮りたいんだと思う。それを考えると、まだ自分は撮れないな。店が建ったりとか、家が新しくできたりとか、そういうことがあったら撮りたいと思う。その瞬間を残したい。
写真って、「過去」を残すためのものというイメージが強いけど、実はそうじゃないと思うんだ。撮ることはその瞬間にしかできない「現在」の行為だと思う。時間が経つからその瞬間が過去になってしまうけど、過去のものを撮ろうと思って撮ろうとしているわけじゃない。おばちゃんたちを撮る時、「若く写して」「すぐに写して」「私が一番いいのにしてね」ってよく言われるんだ。記念写真を撮る時は、数年後その写真がどんなふうに見られるんだろうって考えながら撮影してる。
写真はだから、現在から未来に向けた贈り物のようなものだと思うんだよね。今を記録に残すっていうことよりも、夢に近いようなもの、未来に伝えるものだと思う。そういうことを考えながら、写真を撮ってる。


2018.2.1
(『ランドスケープ|ポートレイト まちの写真屋の写真論 Vol.1』より)




カメラを海面に近づけて撮影した写真。[提供:菊池賢一]


記録者の系譜をさかのぼる



かつて写真館が建っていた。[提供:菊池賢一]




インタビュー終了後、セルフポートレイト、および、写真館内装の写真を依頼し、後日撮影いただいた。[提供:菊池賢一]


写真館という営みのあとを追う──。その始点を東北の現在に定め、時間を遡っていく。複数の写真館を伝って、今日から写真が日本に輸入されるまでの期間を辿り直す。そうやって辿り着いた高みから見えてくるのは、記録されてきたものの変遷、つまり被写体の歴史である。それと同時に見えてくるのは、シャッターを押す者のまなざしの変遷、つまり記録者の歴史である。また、記録者たちの自画像であり、記録者たちの家系図である。写真館に残された記録と記憶を手掛かりに、ファインダーを覗く、そのうしろ姿を覗いていきたいと思う。


*本稿は、『ランドスケープ|ポートレイト まちの写真屋の写真論 vol.01』(初出)を再構成し、加筆した。


『ランドスケープ|ポートレイト まちの写真屋の写真論 vol.01』

企画|AHA![Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]
取材・編集・執筆|松本篤(AHA!)
デザイン|尾中俊介(Calamari Inc.)
撮影・写真提供|菊池賢一(光陽写真)
発行|アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)
2018年3月11日発行
*本紙は、Art Support Tohoku-Tokyo(東京都による芸術文化を活用した被災地支援事業)「ランドスケープ|ポートレイト──まちの写真屋の写真論」([主催]特定非営利活動法人いわて連携復興センター、東京都、アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)/[企画制作]特定非営利活動法人記録と表現とメディアのための組織(remo)/[協力]NPO法人@リアスNPOサポートセンター)の一環として制作されました。

『江上茂雄:風景日記 diary/dialogue with landscapes』展
連続トーク 記録/記憶と風景──「江上茂雄」から「カンバセーション_ピース」まで
「風景を(ひっ)くりかえす」

2018年6月23日(土)14:00〜15:30
ゲスト|松本篤(AHA!世話人)+尾中俊介(デザイナー)
聞き手|大内曜(武蔵野市立吉祥寺美術館 学芸員)

「風景と記憶」

2018年6月30日(土)14:00〜15:30
ゲスト|保坂和志(作家)
聞き手|大内曜(武蔵野市立吉祥寺美術館 学芸員)


場所|いずれも吉祥寺美術館 音楽室(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目8番16号 FFビル7階)
定員|各80名(要事前申込・先着順)
参加費|いずれも無料(入場には当日の美術館入館券が必要)

参加の申し込みやイベント詳細は、吉祥寺美術館のウェブサイトをご確認ください。

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