キュレーターズノート

十和田市現代美術館開館10周年記念展「スゥ・ドーホー : Passage / s パサージュ」/青秀祐展「弾頭の雨が降る夜に、少年は空飛ぶ夢を見る。」

工藤健志(青森県立美術館)

2018年11月01日号

年のはじめからずっと「めがねと旅する美術展」の準備に追われ、展覧会を見てまわる時間もなければ、知的栄養を補給する余裕もなく、脳みそを完全に絞りきってしまったようで、展覧会がおわった後は、しばらく腑抜けの状態が続いていました。乾いたスポンジがぐんぐん水を吸うっての、あの比喩は年寄りにはあてはまりませんね、絶対。むしろ干椎茸を水で戻すような感覚?ともあれ、心身ともにようやくほぐれてきたので、今回は「考えること」のリハビリも兼ねて、2本の展覧会を無理矢理関連づけて紹介してみることにします。

そうそう、「めがねと旅する美術展」は11月12日(月)まで島根県立石見美術館で開催中、そして最終会場の静岡県立美術館は11月23日(金・祝)から来年1月27日(日)までの会期となっていますのでので、お近くの方はぜひお運びください。会場ごとで展示構成ががらりと変わるので、何度でも楽しめますよ。

と、ちょっと宣伝を差し込みつつ、以下本題(口調も変わります)。

「スゥ・ドーホー:Passage / s パサージュ」

まず1本目は十和田市現代美術館で開かれた「スゥ・ドーホー:Passage / s パサージュ」。ドーホーの作品は常設展示室にも、小さなフィギュアの集積によるシャンデリア型の巨大なオブジェ《コーズ・アンド・エフェクト》が設置されているが、まとまった点数の作品を「企画展」として改めて紹介することで、その鑑賞体験を常設作品へとフィードバックさせていくこの取り組みは、常設展を恒久設置作品で構成している十和田現美の魅力を継続させていくうまい仕掛けと言えよう。

《コーズ・アンド・エフェクト》を構成している個々の小さなフィギュアを見る度に「タミヤみたい!」と喜んでいた僕は、スゥ・ドーホーという名前を聞くと、つい反射的に「模型の人」と考えてしまう。実際ドーホーは、横山宏の「マシーネンクリーガー」に登場するSFメカのガレージキットを手がける「HEXAMODEL」を率いて、立体造形の祭典「ワンダーフェスティバル」にもディーラーとして参加している。2013年に発売した第一弾のキットは1/20「Sand Stalker Sdh. 232」という架空のホバー装甲車で、その形式名「Sdh」が自身のイニシャルと重なって面白いなあと思ったりもした(もちろん偶然だろうけど)。そのキットでは内部構造がきっちり再現されたり、外装のメッシュ部までレジンで一発抜きされていて唖然とさせられたけど、それはドーホー作品のディテールの精密さと美しさに見惚れる感覚と僕のなかではおなじい。2005年、メゾンエルメスでの個展のため来日した際に、秋葉原のフィギュア、模型文化に触れ、同時に「マシーネンクリーガー」を知ったというドーホーであるが、途中ブランクの期間があったとしても、少年時代にプラモデルづくりに熱中した体験が、「模型」というメディアがもつ、サイズと材質の可変性、場所と時間の置換性、そして物語の再現と再編、現実と虚構の転倒といった要素に対する意識を育てたのではないかと僕は勝手に妄想している。そうした視点で見ると、ドーホー作品のほぼすべてが「模型」的に解釈できよう。


スゥ・ドーホー:Passage / s パサージュ 展示風景
《Hub-1, Entrance, 260-7, Sungbook-Dong, Sungboo-Ku, Seoul, Korea》(Dark Yellow)
《Hub-1, Entrance, 296-8, Sungbook-Dong, Sungboo-Ku, Seoul, Korea》(Dark Green)
《Hub-2, Breakfast Corner, 260-7, Sungbook-Dong, Sungboo-Ku, Seoul,Korea》(Pink)(いずれも2018) [撮影:小山田邦哉]
Courtesy the artist, Lehmann Maupin, New York, Hong Kong and Seoul and Victoria Miro,London/Venice

本展のメインとなるのは「ファブリック・アーキテクチャー」シリーズの新作3点で、いずれもドーホーのスタジオなど自らと関わりの深い空間を薄い布を用いて1/1スケールで再現したもの。世界各地に点在する空間を、まるで「どこでもドア」でつないだような構成の作品である。韓国に生まれ育った人間としてのアイデンティティを拠り所とし(その布はまるで褓子器(韓国のふろしき)のようにも感じられる)、世界各地への「文化的移動」(ドーホー)がもたらすさまざまな空間や社会との出会いと記憶が布という素材によって再構成されているが、衣服に象徴されるような強い身体性を意識させる布という素材は、ドーホーという「個」の概念を包み込むかのように存在しつつも、「パサージュ」という展覧会タイトルのとおり、シースルーの視覚性がまるで「実体なき境目」のように機能し、内部と外部の関係性を曖昧にしながら、個をさまざまな外部(社会/国家/民族)と接続させていく……といった典型的なドーホー論はさておき、現実を1/1スケールで「模倣」したこの作品は「建築」ではなく、やはり「模型」ととらえるべきだろう。建築的な構造は剥ぎ取られ、あくまでも「作り物」として表層が精密に再現されているこの模型。「もどき」が時として本物以上の力を持つことは民俗学的成果からも明らかであるが、空間寸法の正確な模倣と空間の個性を規定する扉や照明、コンセント、配電盤などのディテールを精密に表現することで、いわゆる「プラモデル」がそうであるように、モチーフを媒介として本物の本質やその背景にひそむ物語へと見るものを誘ってくれる。考えてみれば、異なる文化、環境に存在する空間を扉1枚でつないでいくという意外性もある意味ではSF的であり、異なる要素の接続によって見る者に無限のイマジネイションを呼び覚ましていく、まるで体験型のジオラマのようでもある。そうした模型が持つメディアとしての力がドーホーの作品には強く認められるのだ。


スゥ・ドーホー:Passage / s パサージュ 展示風景[撮影:小山田邦哉]
Courtesy the artist, Lehmann Maupin, New York, Hong Kong and Seoul and Victoria Miro, London/Venice

本展の出品作ではないが、ドーホーの模型的関心は、2012年に広島市現代美術館で開催された個展の目玉作品であった《墜落星- 1/5スケール》(2008-2012年)からも読み取れよう。イギリスで生まれ、アメリカで発展した模型の縮尺はヤード・ポンド法に則って、1フィート=12インチで長さを決めたものが国際規格となっており、1/12、1/24、1/48、1/72などのスケールがそれにあたる。フィギュアの規格として一般的な1/6スケールも6フィートという一般的な成人の身長を1フィート→2インチに縮小したものであり、当然ながらキットやパーツ類も豊富に流通している。それを既製品の流用ができない1/5というスケールをあえて選択したことには「模型」的な判断が作用していると考えられるし(模型ファンはまずそのスケール表記に驚いてしまう)、馴染みのあるメートル法(十進法)でスケールを設定している点にも「文化的移動」の体験が影響を与えているように思えてならない。


スゥ・ドーホー:Passage / s パサージュ 展示風景
《Corridor 14, Wieland Strasse, 18, 12159 Berlin, Germany》(2013) [撮影:小山田邦哉]
Courtesy the artist, Lehmann Maupin, New York, Hong Kong and Seoul and Victoria Miro, London/Venice


スゥ・ドーホー:Passage / s パサージュ 展示風景
《Main Entrance 2, 388 Benefit Street, Providence, Rhode Island 02903, USA》(2015) [撮影:小山田邦哉]
Courtesy the artist, Lehmann Maupin, New York, Hong Kong and Seoul and Victoria Miro, London/Venice

と、ちょっと話が脇道にそれてしまったので軌道修正。今回の展覧会は、各展示室を長い通路でつないだ空間的特徴から企画展示室そのものを「パサージュ」に見立てて、ドーホーの記憶を追体験していく「旅」の場として位置づけられているが、同じ半透明の布を用いた「家」のパーツの彫刻、ドローイングで展示は締めくくられる。建物のファザードやドアノブをモチーフにしたこれら作品もやはりドーホーの個人的な体験をもとにしたものであるが、それらはほんらい空間の境界をつないだり、隔てたり、行き来するための装置である。それを開けるか、開けないか。越えるか、越えないか。パサージュを自由に通り抜けたさいごに我々は「移動」という概念に対する意思決定の重要性に気づかされるのである。その繊細な美しさにひそむ鋭い問いかけ。本物の型を忠実に模倣する模型的なアプローチから、本物が持つ機能を越えてさまざまな想像力が喚起されていく(余談だけど、この作品にタミヤの「パーツパネルコレクション」のイメージがぴたりと重なってしまった)。ドーホーの作品は、模型とアート双方の思考を、発展的に統一した上に成り立つものと言えはしないだろうか。

青秀祐展「弾頭の雨が降る夜に、少年は空飛ぶ夢を見る。」(eitoeiko)

そしてもう1本。ドーホー展を見て、ふと思い出したのが東京のeitoeikoで6月に開催された青秀祐の個展「弾頭の雨が降る夜に、少年は空飛ぶ夢を見る。」であった。こちらの展示はミサイルや爆弾を原寸大でファブリックの模型に変換した作品を中心に構成されていた。「飛行」や「機械」をモチーフとした多くの作品を残した稲垣足穂の修辞を連想させる展覧会タイトルは、ミサイルを抱き枕にして眠る少年をデジタル技法で描いた平面作品からとられているが、そのイメージは展示全体の印象をより確固たるものにしていた。少年時代の願望をテーマにしたというこの作品が示すように、青は航空自衛隊の「F4-EJ ファントムII」乗りであった父の影響を受け、戦闘機や装備品への偏愛を抱くようなり、それらをモチーフにした作品を一貫して作り続けている(出品作のひとつである、自らの身体を型取りして航空機に見立てた《Phantom》は模型的思考を用いて制作された、すぐれた「自画像」と言える)。

今回の展示でまず目を引くのはボーイング社製ミサイル「ハープーン」の空対艦型AGM-84と、レイセオン社製空対空ミサイル「スパロー」の原寸大模型だろう。小型の2作品は「Mk.82 500ポンド無誘導弾」と「BDU-33 25ポンド訓練弾」という爆弾の模型であり、いずれも航空自衛隊にも導入されている装備品であるが、多くの人にとってはどれも「ミサイル?」程度の見方しかされないのではなかろうか。ちなみに空対地ミサイルを自衛隊は保有していないため、出品作のなかにももちろんない。すなわち、ここには我々の日常に隣接している兵器が並べられ、(一切の解説は省かれているが)今の日本が置かれている状況が暗示されているのだ。


青秀祐展「弾頭の雨が降る夜に、少年は空飛ぶ夢を見る。」 展示風景
(壁面:上)《AGM-84 Harpoon》2018
(壁面:下)《AIM-7 Sparrow》2018

今回の模型は「ぬいぐるみ」という形式がとられているが、ぬいぐるみという「移行対象」に、青は自身の愛着、偏愛、執着を投影しながら、その対象からの客体化、分化を試みていく。2つの爆弾模型には青が着用した衣服や、生活で使い込まれたバスタオル、マット、タオルケットなどが素材として流用されており、青の個人的な記憶や身体性が客体化されている。兵器と玩具、個とパブリックの境界を往来することで、青は社会や文化に対する考察の間口を大きく切り開いていくのだ。

一方、ミサイルのぬいぐるみ模型では、弾頭、燃料タンク、酸化剤タンク、エンジンなどミサイル内部のモジュール構造が規定する外殻の差異を忠実に模倣するため、合成皮革や布などさまざまな質感を持つ素材を使い分けて表現している。手芸材料や刺繍によって再現されたリベットやコーションマーク等のディテールの再現性の巧みさにも目を奪われてしまうが、こうした素材の選択や表現の方向性からは明らかに兵器に対するフェティシズムが読み取れよう。しかし、戦闘機や飛行機の機能美、造形美への憧れや欲望をストレートに表現するのはミリタリーマニア的な趣味性の開陳に過ぎないという短絡的な評価や、アートに「批評性」という言い開きばかりを求めてしまう態度には少し気をつけた方がいいかも知れない。例えば、我々の生活に溶け込んでいる携帯電話もインターネットも電子レンジもお掃除ロボットもエアバックももともとは軍事技術の民生転用であり、スーパーに並ぶ加工食材の多くもまた軍事研究の成果のひとつである。単純に善と悪には分類できない、こうした社会の複雑な「矛盾」の上に日常/平和があることをまず我々は自覚しなければならない。批評という行為そのものを目的化するのではなく、なぜ戦闘機やその装備品は美しいのか、そして多くの人を惹きつけるのか、という問題からまず考えてみる。ミリタリーマニアをひとくくりにし「好戦家」と決めつけるような一般的な認識を是正していくこともアートの役割と言えるし、批評の前提となるテーマやモチーフをさまざまな角度から分析していく態度こそが何よりも重要であることを、僕は青の作品に触れて改めて強く思った。


青秀祐展「弾頭の雨が降る夜に、少年は空飛ぶ夢を見る。」展示風景


(上左、上右)青秀祐《BDU-33 Practice Bomb》(2018)
(中央、下)青秀祐《Mk82 LDGP》(2018)


青秀祐《弾頭の雨が降る夜に、少年は空飛ぶ夢を見る》(2018)


兵器の「本物」を我々は実際に目にする機会はほぼない。日本という国家、あるいは我々の日常を支えるための装置であるにもかかわらず、である。しかし決して「情報」が隠されているわけではない。実際には模型や写真、文献資料をとおして、かなり正確に本物へと迫ることが可能である。「戦闘機というモチーフを通じて私は現在を観測する」と自ら記しているように、青の作品は、それじたいが何かを主張するのではなく、社会を観測するための媒介、装置として機能する。観測装置である以上、本物の本質はきちんと抑えられてなければならない。その点を踏まえた上で「ぬいぐるみ」へと置換されているからこそ、社会を考察するために必要なリアリティに加え、さまざまな詩的イメージが編み出されていくのだろう。青のフェティシズムから生じるオブジェとしてのエロティシズム。そのフォルムから生じる「機械」と「身体」の関連性(発射前に取り外すシーカ保護カバーまで制作されているところがなんとも・・・)、デジタル絵画のイメージから連想されるエディプスコンプレックスと去勢不安。さらに、作品の向こうには「空」と「飛行機」の存在が暗示され、地にはりつくギャラリーの閉じた空間の中に「飛翔」の想像力が掻き立てられていく。青はモチーフの模型化をとおして、人間の精神に抽象化の作用を施し、そこにアートとしての確たる存在と、そして美を与えていくのだ。

本物の「模倣」が生み出す本物を越える力。模型的な思考と方法を用いた作品の良質な成果を、僕はこの2本の展覧会に認めた。

開館10周年記念展 スゥ・ドーホー : Passage/s パサージュ

会期:2018年6月2日(土)~10月14日(日)
会場:十和田市現代美術館(青森県十和田市西二番町10-9)

青秀祐 弾頭の雨が降る夜に、少年は空飛ぶ夢を見る

会期:2018年06月09日(土)~ 2018年06月30日(土)
会場:eitoeiko(東京都新宿区矢来町32−2)

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