キュレーターズノート

世田谷の8ミリフィルムにさぐる──穴アーカイブ:an-archive

松本篤(AHA!/ remo)

2019年02月01日号

現在から過去を経由して、現在に還ってくる。
すると今まで見えなかったものが見えてくる。
そんな“もうひとつの現在”への抜け穴を、
世田谷の8ミリフィルムにさぐる。

穴から見える風景

提供者宅でのフィルム上映会の1コマ



『あこがれの大島へ』昭和11年撮影



あな【穴】
- 反対側まで突き抜けている空間。「針の―」
- 必要な物や人が抜けて空白になった所。「人員に―があく」
- 番狂わせの勝負。「―をねらう」
(出典:デジタル大辞泉[一部抜粋])



平成が終わる。新しい時代がやってくる。

2015年から始動した「穴アーカイブ:an-archive」★1 ★2。本プログラムは、主に昭和30〜50年代にかけて市販された8ミリフィルムに着目し、それらの収集・公開・保存・活用をとおして、かつての世田谷のまち、ひと、暮らしに光をあてるというものだ。8ミリフィルムとは、映像史上はじめてひろく普及した映像メディア。スマートフォンやビデオカメラで記録を残すことが日常化しつつある現在、8ミリフィルムという存在は、大衆化するパーソナルメディアの元祖として捉えることができるだろう。

本プログラムの目的は、かつて新しく今では古くなってしまった8ミリフィルムを「生活文化の記録」として位置づけ、アーカイブすることである。一部の富裕層や趣味人が飛びついた昭和30年代。高品質化・低価格化が実現し、爆発的に流行した40年代。VHSなどの新しいメディアの台頭によって、急速に廃れた50年代。撮影機とフィルムを手に入れた人びとは、家族、地域、旅行、趣味など、時代ごとの身の回りの事柄に目を向けていった。しかし、かつて大流行したメディアは、今ではその役割のほとんどをデジタル機器に譲ってしまった。目下8ミリフィルムは、所有者の自宅の押し入れの中に眠ったまま、劣化・散逸の危機に直面しているのだ。

プログラムに冠された「穴」。これには、記録の不在という意味が込められている。フィルムに残された私的映像は、当時の様子を写した断片的な記録にすぎない。この取り組みは、残された記録のみならず、それにまつわるさまざまな人びとの記憶にも着目する。かつてそこにあった人、暮らし、まち並みに思いを馳せながら、現在の風景と重ね合わせるのだ。記録を残すという営みを、記録が残らないこと、残せないことから考える。記録に残すことを記録の不在(穴)から捉え直す、反(an)アーカイブ的アーカイブの試みなのである。



提供者を交えてのフィルム上映会の1コマ(提供者に先導されながら、記憶の地図を歩く)



『保田臨海学校』昭和35年撮影


ヨイトマケの唄



公開鑑賞会の1コマ(2015年の鑑賞会では、日本大学後藤範章研究室の学生の皆さんがファシリテーターを務めた)



『向ヶ丘、多摩川』昭和36年頃撮影


2015年初夏から本格的に動き出した穴アーカイブ。最初のプロセスは、フィルムの収集。押し入れに眠るフィルムをひろく募り、関係者を囲む上映会を行なう。スタッフは、スクリーンに映しだされた映像の内容だけでなく、フィルム提供者が想起した語りをもできるだけ丁寧に拾い上げる。あらかじめ用意された地図に、伺った出来事やエピソードを書き込んでいくと、記憶の地図が出来上がっていく。「バスの運転手として、移り行く世田谷の街並みを長いあいだ定点観測していた」「父親は玉電の運転手。休日に廃線直前の電車を撮ったのがこのフィルムです」「昭和20年代後半が映っています。新宿駅近くのフリマで手に入れました。撮影者は誰なんだろう」……。これまでの4年間で約30名の方にご提供いただき、そのうち84巻、時間にして13時間ほどのフィルムをデジタル化することができた。

そのうち、特に印象深かった提供者の語りをひとつ紹介しよう。提供者は、第一子を授かった昭和45年に撮影された自宅の改築のフィルムをみながら、かつて高校生だった頃に親の仕事を手伝ったことを思い出している。

──父は、子どもを3人も養わなきゃいけなかった、仕事は何でも引き受けた。それで、当時は井戸をつくる家がすごく多くて、井戸掘りが専門の仕事みたいになっちゃったの。(略)おかげさまで、私はここまで生きてこられました。だから死ねないの。こうやって言い伝えていかないと思うし。昔は建設の仕事ってね、ヨイトマケの唄ってあるでしょ。あれを聴いて、『許せないこんな歌』って怒ったことがあったんだけどね。そのヨイトマケのおばさんを呼んでくるのが私の仕事だった。(略)あんたん家、何の仕事? なんてよく友達に言われて、傷ついちゃって。(略)「将来何になりたいですか」っていうアンケートが中学校のときにあった。“先生の奥さん”って書いたの。その担任の先生の奥さんじゃなくて。教師という仕事は、楽で、綺麗で、お金がもらえると思ったのかしらね。とにかく、私は土建屋さんという仕事が嫌だったんだと思う。きたない仕事という感じで。それで、“先生の奥さん”って書いて。いわゆるホワイトカラーになりたかったんだと思うんだけど。私、とっても一生懸命勉強して。元気で大きくなればいいと思ってる父と、女性でも学問を身につけなきゃダメと思ってる私と、考えが全然、折り合わなかった(続く)──★3

ただ太平洋があるだけ


収集の次のプロセスが、映像の公開。デジタル化した映像の一部をお披露目する公開鑑賞会を毎年実施している。「五輪の開会式を自宅のテレビで観ていると、窓からも空の五輪がよく見えた。実際はあんな色だったんだ」「渋谷から自宅の砧まで、よくタクシーで帰りました。窓を開けていると、途中から匂いが変わるの。草木の香りがするの。ああ、家に帰ってきたという感じ」。毎回100名ほどの来場者に恵まれた会場では、映像や提供者の語りを引き金に、各所で大きな盛り上がりを見せている。

鑑賞会で上映される映像は、必ずしも世田谷区内に限定されない。2015年の鑑賞会では、昭和30年代に「金の卵」として上京した提供者が、昭和55年の盆に帰省した際に撮影した宮城県南三陸町の風景を上映した。2011年の東日本大震災では、自宅は運良く大きな被害から免れたが、ほかの古い家はみんな流されてしまったと提供者は言う。記念に、と思ってその時撮影した戦前の家族アルバムも津波に流されてなくなってしまった、映像の中の風景も流されてなくなってしまった。そんななか、故郷について一番記憶に残るものは、提供者が小さい頃に見た海の色や、ただ太平洋が広がっている何もない風景だと語ってくれた。

ひとつの映像に対して複数の見え方が現われる。鑑賞会にはそんな豊かさが宿っている。それは、映像や語りを媒介にした、参加者どうしの共同作業の場だからではないだろうか。「私の撮った映像なんて、たいしたことないのに」。鑑賞会が始まる前、提供者は必ずといって謙遜する。しかし一般参加者は、撮影者の意図を超えて感情を揺さぶられ、語り出してしまう。提供者は、他者の視点の介在によってはじめてその映像の潜在的価値に気づく。この時、映像は提供者だけのものではなく、一時的に映像を観た参加者の共有財となっているのだ。


公開鑑賞会の1コマ[photo: Yozo TAKADA]



『新幹線試乗』昭和39年撮影


平成の終わり、昭和の始まり



せたがやアカカブの会の1コマ(参加者が持参した人形)



『子供No.4』昭和39年頃撮影


目下、映像の活用に注力している。その一つ目が「せたがやアカカブの会」だ。公開鑑賞会でお披露目した映像をあらためてじっくりと鑑賞し、映像にまつわるモノや語りを持ち寄ってスクリーンの外にひろがる風景について考える小さな集いである。参加者は、誰かが残した記録を、ほかの参加者の声を聴きながら、眺める。それは、“私”のものではないものを介して“私”のまなざしがつくられる、不確かさに満ちた即興の創造行為だと言える。目に入ってくる記録、聞こえてくる記憶、参加者の思索が思いもよらないかたちで結びつくことで、映像の中の風景からもこぼれ落ち、現在の風景にも残っていない、これまで見えていなかった風景が立ち上がってくるのだ。

二つ目の活用例が、これまでに収集、デジタル化してきた13時間にもおよぶ全映像が視聴できるウェブサイトの制作である。本プログラムはこれまで、映像を用いた対面的なコミュニケーションを重要視してきた。それは、限られた時間に限られた人数にのみ開かれた環境でもあった。この状況を少しでも改善するために、提供者の承諾を得られた84巻のフィルム映像が視聴できるウェブサイトを、2019年3月にオープンさせる。これにより、世田谷区内外の福祉施設、学校教育、まちづくりなど、多岐にわたるシチュエーションで、映像を用いたコミュニケーションが活性化し、豊かな語りが生み出されることを願っている。

三つ目の活用例が、2020年のオリンピック・イヤーに予定している展覧会の開催(世田谷クロニクル1936-83/仮称)である。デジタル化されたフィルムには、戦時中の人びと、復興をとげたまちの風景、高度経済成長期の暮らしといった、移り行く世田谷の様子が収められている。例えば、1940年(開催中止)、1964年、2020年と、3度のオリンピックを経験する世田谷。展覧会の実施によって、当時の人びとがそれぞれに歩んだ道のりを、世田谷という場所を定点として微視的に辿り直すことができる“小さくて大きい”展覧会をめざす。映像や、映像からさらに生み出される無数の語りや風景を積み重ねることによって、“昭和の世田谷”を点描で描きだしたい。

記録の不在(穴)は、記憶や想像力を活性化させる「装置」として機能し始めるだろう。展覧会やウェブサイトは、単に映像を紹介するだけのメディアではない。私たち自身が書き込み可能、読み込み可能な“メディア”であることを発見、再発見できる場所となるはずだ。記録・再生装置としての「あなた」に光を当てる、いや、あなた自身が光になる。現在から過去を経由して、現在に還ってくる。すると今まで見えなかったものが見えてくる。そんな“もうひとつの現在”への抜け穴を、世田谷の8ミリフィルムにさぐる。それが穴アーカイブなのだ。

平成が終わる。新しい時代がやってくる。昭和が始まる。


                     せたがやアカカブの会の1コマ(参加者が持参した、戦時中に発行された国債)



『新百貨店落成式など』昭和45年撮影



★1──主催:公益財団法人せたがや文化財団 生活工房/企画:NPO法人記録と表現とメディアのための組織(remo)。
★2──本テキストは『SETAGAYA ARTS PRESS vol.6』(編集・発行:公益財団法人せたがや文化財団、2015.12.10)に寄稿した「穴アーカイブ:an‒archive──世田谷の8ミリフィルムにさぐる」を元に、大幅に加筆修正した。
★3──反訳・編集:穴アーカイブ。2017年に開催した「穴アーカイブ」展の展示資料から、一部抜粋して転載。


穴アーカイブ:an-archive 8ミリフィルム鑑賞会〈特別編〉

会期:2019年03月10日(日)
時間:14:00〜15:30
会場:世田谷文化生活情報センター 生活工房 ワークショップルームA(4F)

ウェブサイト「世田谷クロニクル1936-83

企画:穴アーカイブ
ディレクション:松本篤(remo /AHA!)
デザイン/制作:田中慶二(Calamari Inc.)
翻訳:プルサコワありな[藍那](AHA!)
進行管理:佐藤史治(生活工房)
https://ana-chro.setagaya-ldc.net/