2018年12月01日号
次回12月17日更新予定

キュレーターズノート

京都市立芸術大学作品展(学内展)/わたしが This is になっても黒目画廊に連れてって/風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから

中井康之(国立国際美術館)

2011年03月15日号

 この場所はレポートを記す場所なので、粗雑な論理を展開することは慎むべきことと認識している。しかしながら、そのレポート対象となる作品を生み出している作家と話をしていると、行きつく先は根源的な問題になることは避けられないことだろう。先日もある作家と打合せをしているうちに、作品を成立させる原理的な論議へと話が進み、その作家がマイケル・フリードのシアトリカル批判についての話題を俎上に乗せてきた。正直な話、マイケル・フリードの論考に対して明確な方向性を持って対峙した経験もなく、精密な討論には成り得なかったのであるが、マイケル・フリードは基本的にはクレメント・グリーンバーグのモダニズム批評を大前提として展開していた筈であり、そのような観点で話を繋げていった……。

 このような話をしてから、以前から心にわだかまりとして残っていた疑問が、再び浮かび上がったのである。それは「絵画」をどのように規定すればよいのか、という問題である。周知のように、グリーンバーグはまさに近代的な論理によって、その領域をカテゴライズしていった訳であり、その論法はグリーバーグ自身が述べているようにカントの論理に基づいている。しかしながら、そのカントの論理はすでに破綻している、というのは過言にしてもあまり有効とは言えないのではないだろうか。デカルトに由来する近代哲学の「主観と客観」という枠組みを基本にしながら、カントは「神の存在証明」のような哲学の根本問題は人間の理性の能力を超えたものであるとして実証主義的な哲学を確立していった筈である。しかしながら、ヘーゲルは人間の主観の可能性について論じ、ニーチェは客観というものを否定したのだろう。これ以上粗雑な論理を続けたくないのだが、しかしながら、現在においては、まず第一義的に「主観/客観」という大前提となるような基本的な枠組みの関係性さえ保証されない、ということを第一義的にとらえていかなければならないことに間違いはないだろう。
 もちろん、ここで反論が予想される。「絵画」あるいは「彫刻」といった、美術のカテゴリーに関する問題などは、実証主義的なレベルの話であり、わざわざそこで「主観/客観」といった根本問題を持ち込むまでもなく形而下のレベルで思考すれば十分なのである、と。これは、イエスであり、かつノーであろう。絵画を物理的に規定しているのは確かに材料の問題であり、色彩や物語という絵画にまつわる構成要素もそのような物理的な物に由来しているという考え方をするならば、イエスのなのかもしれない。しかしながら、主観/客観問題を棚上げにするとして、色彩というものが客観的な対象物としては存在し得ないであろうし、物語というものも同様であろう。そして、件のグリーンバーグの論考では絵画を規定するものとしてそれらは有効としていないので、形而下レベルの思考で〈問題がない〉ということにはならないのは言うまでもない。客観的な対象物として措定できない事項が、なにかの集合体を分類する基準には成り得ないからである。とはいえ、「絵画」と「彫刻」(というカテゴリーの美術作品)は、歴然と存在してきたし、これからも存在するであろう。それをつくり続ける者はいるであろうし、それを見続ける者も存在し続けるのである。

 つらつらとこのようなことを綴ってきたのは、あるいは京都市立芸術大学の作品展で見た和田真由子の作品を見ることがあったからかもしれない。和田はその発表初期から、絵画と立体作品の問題に取り組んできた。作家の弁によれば、例示した《建物の絵》は、絵画の中に建築物を建てる試みであったという。それは前提条件として、立体的な構成要素によって同様の主題を試みたときとの差違によって、絵画とはどのようなものであるかを問うような行為であったようだ。和田のもう一点の作品《鳥》は、あるモチーフを立体的な要素によって構成しながらも、絵画を志向した作品であるという。ようするに和田は、絵画を成立させるための必要最低条件とされている平面性に対して、作家としての美的直感を用いて実証主義的な態度でさり気なく疑問を呈するのである。


左=和田真由子《建物の絵》
左=同、《鳥》

 もちろん、絵画が、既成のカンヴァス上に既成の媒体が付与されることによって構成されていてもなんの不思議もないだろう。そのような言質を導き出すのは、チューブから絞り出したような絵の具がカンヴァス上に乱舞する山名彩香の《恐竜》という作品であった。小さな画像で見るとタイトルとされた対象を無造作に示す無垢な表現のように映るかもしれないが、等身大を優に超える実際の作品は、暴力的とも言える物質としての無数の絵の具によって見る者を圧倒するのである。おそらくはこの作品のタイトルはそのような物質性に対して付されたものなのだろう。ただし、絵画とは優れてイリュージョンの問題でもある。カンヴァス上の表現媒体がその素材そのものに限りなく近づいていこうとするベクトルは、立体作品へと向けらているようにも感じる。
 画面に物理的な絵の具が量感を持って覆いながらも、溶剤を媒介させることによって複数の色が自然に風景を導き出すような作品を描いていたのは黒宮菜菜の《夜》という作品だった。黒宮は、以前は、その風景があるパターンを構成するような画像を意図的に導き出していたと思うのだが、絵の具という材質に寄り添うかたちで作品が変化してきたのだろう。カンヴァス面が見えなくなってはいるが、そのような意味においては山名より絵画としての特質を備えているだろう。


山名彩香《恐竜》


黒宮菜菜《夜》

 複数の色を幅広の筆に含ませて、画面上にその筆触を縦横無尽に走らせることによって、独自な室内景を描きだす山本理恵子の《リビングルーム》は、絵画が筆という用具によって描かれてきたということを、そのスピード感のある筆触を駆使することによって思い起こさせてくれるのである。それは筆触のための筆触というようなモダニスティックな手法ではなく、なんらかの具象的なイメージを浮かび上がらせることによって、より一層、絵画を成立させてきた行為としての認識をうながすのである。
 もちろん、絵画がイメージの集合体としての歴史であったことを忘れ去られることはないだろう。その多くが神話的、あるいは歴史的な主題に基づくものであり、絵画の役割が補助的な位置にあったことが否めない事実であったとはいえ、人々の記憶のなかに残るそのような絵画のイメージを活かす手法として、三宅由希子の《樹海に入る》のような日本の説話を想起させるような作品があるだろう。あるいはまた、ヒョンギョンの《炎》のような民族的主義的ともいえる強い情念を形象化する、象徴化する機能というものによってより強化されるであろう。


山本理恵子《リビングルーム》


三宅由希子《樹海に入る》


ヒョンギョン《炎》

 あるいは日常の光景にさり気なく裂け目を入れるかのような不可思議な風景をつくり出す西田菜々子の《温室》は、超現実主義的な手法が今日でも有効であるということを示していることが重要なのではなく、いま私たちが生活しているこの場所を起点として、意識下の光景を視覚化したような絵画空間が派生していることに、その作品が存在する意味があるのだろう。
 最後に、モダニスティックな観点によって描かれているようにみえる抽象絵画を中山真理恵は発表していた。その中山の作品《背景》と《拡大》は、自らの相互の作品の要素を取り込むことによってそれぞれが成立している。絵画を成立させるための内的な要因を自己言及的なものに見出すことによってその命脈を保たせるという方法論にタフなものを感じた。
 モダニスティックな観点によって、いまだ絵画は可能なのか、という中山作品から見取ることのできる提案は、相対的には、もっともラディカルな態度であると考えることもできるだろう。しかしながら、その立場は、モダニスティックな絵画の成立をつねに疑いながら、という付帯条件がともなうことになるのだろう。そのような検証は、最初に見てきた和田作品に顕著であることは言うまでもないことであるが、山名や黒宮の作品に見ることができるように、絵の具のような二次的ともいえる物質に対する批判的な問い掛けが同様に重要であることもまた事実なのである。さらには、それらによって生み出されるイメージの集積が有効となるためには、そのイメージが成立するための必要条件がつねに問われることになるのだろう。


西田菜々子《温室》
photo credit: O Gallery eyes


左=中山真理恵《背景》
右=同、《拡大》

京都市立芸術大学作品展(学内展)

会場:京都市立芸術大学
京都市西京区大枝沓掛町13-6
会期:2011年2月9日(水)〜13日(日)

学芸員レポート

 前回のレポートでも触れた梅香堂で、「わたしが This is になっても黒目画廊に連れてって」という催しが開かれた。そこで行なわれたトークが本ホームページのDialogue Tourでレポートされると聞いている。じつは、その黒目画廊は梅香堂の近隣で運営されていて、梅香堂での催しの最中に訪問する機会があった。昭和の趣の集合住宅を利用したそのスペースは、常時、展示スペースやトーク・イベントが開催されているということであったが、主がいなくなっているその期間、目黒画廊を運営する一人である辺口芳典(もう一人は溝辺直人)の写真作品が展示されてあった。
 また、国際美術館では「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから」という展覧会が始まった。アジアのコンセプチュアリズムというカテゴリーに対して疑問を呈する向きもあるかもしれないが、記者発表のときに、参加作家の島袋道浩が「リレーショナル・アート」系と言われるより「コンセプチュアル・アート」系と言われたほうがうれしいかな、というようなニュアンスの発言が代弁するように、西洋中心主義のカテゴリーからの発想ではなく、東アジアの新しい動きに対して、新たなるコンセプチュアリズムを宣言している、という秘やかななかにもラディカルな意志を込めた展覧会だろう。


左=黒目画廊でのインスタレーション(写真作品:辺口芳典)
右=contact Gonzo パフォーマンス(「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから」オープニング・イベント)

わたしが This is になっても黒目画廊に連れてって

会場:梅香堂
大阪市此花区梅香1-15-18/Tel. 06-6460-7620
会期:2011年1月22日(土)〜3月6日(日)

風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから

会場:国立国際美術館
大阪市北区中之島4丁目2-55/Tel. 06-6447-4680
会期:2011年3月8日(火)〜6月5日(日)

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