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鬼海弘雄「東京ポートレイト」

2011年09月15日号

会期:2011/08/13~2011/10/02

東京都写真美術館 地下1階展示室[東京都]

鬼海弘雄の作品を見ていると、語呂合わせではないがいつも「魔」と「間」を感じる。1970年代から撮り続けられている「浅草のポートレイト」のどの一枚でもいい。写真の前に立って、そこに写っている人物の姿をじっと眺めていると、あたかも「魔」に見入られたような気分になってくる。目を離すことができなくなり、ここにいるのは何者なのか、なぜこんな姿でこの場所に出現しているのか、写真家はなぜ彼の前を行き交う無数の通行人からこの人物を選んだのか、この人はどこから来てどこに行こうとしているのか等々、次々に問いが湧き上がり、知らぬうちに長い時間が過ぎてしまうことになる。ふと我に返ってあたりを見回すと、自分の近くでやはり写真に見入っている観客の姿が目に入ってくる。その姿が、どう見ても鬼海が撮影した「浅草のポートレイト」の登場人物そのものなのでびっくりしてしまう。世間からはずれた、異形の人物たちを撮影しているようで、このシリーズはわれわれ一人ひとりのなかに潜む、普遍的とさえ言えそうな「人間」の存在の原型をあぶり出しているのではないだろうか。
今回の「東京ポートレイト」展で発表されたもうひとつのシリーズである「街のポートレイト」の凄みは、6×6判カメラの真四角のフレームの中にひしめく建物や看板の「間」に潜んでいる。シュルレアリスムの美学を思わせる、意表をついた異質な要素の組み合わせの隙間から、どこか不気味であり、笑いを誘うようでもある、なんとも奇妙な気配が立ちのぼってくるのだ。狙いを定めて獲物を撃つような浅草の人物写真と比較すると、鬼海の街の写真には投げやりとは言わないが、被写体の自律性に身をまかせる放心の態度を感じとることができる。それでもやはり、この一見優しげな「街のポートレイト」も相当に怖い。何気なく足を踏み入れると、やはり「魔」の世界に連れ去られて、帰って来られなくなりそうに感じるのだ。
鬼海弘雄は「魔」と「間」を自在に操る術を40年以上にわたって鍛え上げ、他の追随を許さない、そして写真という表現のメディウム以外では絶対に不可能な作品世界を確立してきた。その優れた成果を、今回の展示でしっかりと確認することができた。

2011/08/12(金)(飯沢耕太郎)

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