artscapeレビュー

預言者

2012年03月01日号

会期:2012/01/21

ヒューマントラストシネマ渋谷[東京都]

近年稀に見るフィルム・ノワールである。ジャック・オーディアール監督が描き出したのは、入獄した若い受刑者の男が刑務所内の社会でなんとか生き延びていくプリズン・ドラマ。孤独から出発しながら組織の底辺に組み込まれ、知恵を働かせながら対立する組織とうまく折衝していき、やがて組織の上へのし上がってゆく。アラブ系主人公のいかにもチンピラ風の顔と身ぶりが断然よいし、人道的な老人に扮した『サラの鍵』から一転して冷酷なコルシカ・マフィアを演じたニエル・アリストリュプの佇まいも味わい深い。閉ざされた刑務所社会の暗鬱とした空気感と、陰惨な暴力描写には言いようのないほどの恐怖を覚えるが、その一方で不可能にしか思えない困難な局面を切り抜けていく鋭い知性とたくましい根性のありようが、とてつもなくすばらしい。人間が生きる技術、すなわちアートが、すべて描き出されているといってもいい。たとえば権力を握るにつれて、主人公は刑務所の内外を往来するようになるが、日本とフランスの制度上のちがいに驚かされることに加えて、ここには人間社会の境界線を超えていく想像力が表現されているように考えられるからだ。刑務所社会に育てられたともいえる主人公にとって、一時的に出向くことができる刑務所の外のシャバは刑務所社会の延長でしかなかったし、そのことは完全に出獄したとしてもおそらく変わらないことは、ラストシーンで象徴的に描かれている。あの名作『ビューティフル』と同じように、画面に特定の死者がはっきりと映り込む設定にしても、この世の人間とあの世の人間の境界を軽やかに乗り越えていく想像力の表われにほかならないし、異民族のあいだを行き来する主人公も、その想像力を身をもって体現していると言えるだろう。そもそも「預言」という才覚ですら、現在と未来の境界線を部分的に溶解する技能として考えられる。この映画から得られるのは、人為的に構成されたありとあらゆる境界線を超越する根源的な想像力のありようである。社会の制度疲労がもはや隠しようがないほど明らかになっているいま、もっとも必要されているのは、このイマジネーションだ。

2012/02/01(水)(福住廉)

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