artscapeレビュー

平成23年度第35回東京五美術大学連合卒業・修了制作展

2012年04月01日号

会期:2012/02/23~2012/03/04

国立新美術館[東京都]

清水穣が的確に喝破したように(「制作展の翳り」[『美術手帖』2012年4月号])、今日の美大の卒展は「ゆとり世代」の弊害とも言うべき雰囲気に支配されている。全体的に漠然としていて白々しい展示の風景は、少なくとも大都市圏の美大の卒展に共通する一般的な傾向と言ってよい(むしろ地方都市の美大のほうが、実感としてはまだ希望がある)。政治的社会的表現の圧倒的な不在と、メディウムの即物的な改変の流行は表裏一体の現象であり、美大におけるアカデミズムにかなり前から巣食っていたが、以前にも増してそれが際立って見えるのは、ひとえにその外部にある今日の政治的社会的状況がこれまでにないほど緊迫しているからだろう。物質に閉じこもる「ゆとり」を必ずしも否定するわけではないが、そのような今日の状況にあっては、それが同時代を批判的に示すより逆に黙認することになりかねないし、同時代のアート、すなわち現代のアートを志すのであれば、むしろ美術に頼るより世俗的な社会の現場に直接的に飛び込むほうが有効であることは、もはや誰の眼にも明らかである。
さしあたってそのように現状を診断したうえで、本展に展示されていたおびただしい作品を見渡してみると、注目できたのは次の2点。武蔵野美術大学の長谷川維男による《2011年府中の旅》と、女子美術大学の緑川悠香による《フクシマ》だ。長谷川は、昨年のDIC COLOR SQUAREでの個展では赤い地蔵コーンのシリーズを発表していたが、今回は府中を宇宙に見立てたドキュメント作品を展示した。府中人とは一切の交流を持たず、公衆トイレの使用も自ら禁じ、さながら宇宙旅行のごとく、3日間の予定で生存圏外の府中の街へ繰り出した。こうしたパフォーマンスがウケ狙いの遊戯にすぎないと切り捨てられがちであることは否定できないとしても、一方でそれが今日の危うい生存圏を鈍く逆照していることもまた事実である。尋常ではないほどの放射性物質が拡散され、それらが循環する生態系の中で生きることを強いられている私たちにとって、生存圏外としての府中=宇宙は、笑って済ますことができないほどリアルな問題だからだ。2日目に警察の職質を受けて旅が頓挫させられたのも、生存圏内というフィクションの綻びを暴くパフォーマンスへの政治的な中止命令として考えられないこともない。いかにも乱雑なアウトプットにやや難が残るものの、この愚直な挑戦は評価したい。
緑川による《フクシマ》は、直接的なタイトルはともかく、絵画表現として得体の知れない強度を感じた。おそらくは男女の横顔を描いた具象的な平面作品の対は、それぞれ陰鬱な背景と生々しい肌色が鮮やかに対比させられているが、細部に仕掛けられた抽象的な操作が、不穏な雰囲気を倍増しており、なんとも怖ろしい。もしかしたらとんでもないものを見てしまったのではないかという不安な気持ちにさせられるほどだ。「いま」を平面に落とし込む意欲すら見られない作品が多勢を占めるなかにあって、それに取り組んでいる非常に稀有な例として印象に残った。

2012/03/02(金)(福住廉)

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