2024年03月01日号
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artscapeレビュー

日本の「妖怪」を追え!

2013年09月01日号

会期:2013/07/13~2013/09/01

横須賀美術館[神奈川県]


今や「妖怪」の展覧会は夏の風物詩なのだろうか。今夏だけでも、本展のほかに、「大妖怪展─鬼と妖怪そしてゲゲゲ」(三井記念美術館)、「幽霊・妖怪画大全集」(そごう美術館)が、ほぼ同時期に催されている。もちろん、子どもたちに訴求力のある「妖怪」は、夏休みの美術館にとって絶好のコンテンツなのだろう。とはいえ、本展が他の妖怪展と明確に一線を画しているのは、妖怪を表現した現代アートの作品も展示に含めている点である。妖怪を歴史という専門的な地平に追いやるのではなく、愛すべき大衆的なキャラクターとして囲い込むのでもなく、あくまでも現在の美術表現に連なる主題として位置づけようとする構えが、すばらしい。
事実、江戸から現代まで時系列に沿って構成された展示が伝えているのは、時代に応じてさまざまに表現されてきた妖怪の足取りである。鳥山石燕の版本をはじめ、葛飾北斎、歌川国芳らの浮世絵を見ると、人間が暮らす日常世界と魑魅魍魎の異界が極めて近いことに驚かされる。見えないものが見えるというレベルを超えて、妖怪たちが人間の世界に侵食し、縦横無尽に跋扈していると言ってもいい。その妖怪たちはたしかに異形ではある。けれども、だからといって必ずしも恐ろしいだけではなく、どこかで憎めない愛らしさもあるところが面白い。ケタケタと笑う哄笑さえ聞こえてくるようだ。おそらく江戸時代の人びとも、そのようにして妖怪画を楽しんでいたのではないだろうか。想像の次元において、妖怪は人間の日常生活に随伴していたに違いない。
ところが近代化に邁進する明治以後になると、妖怪は駆逐の対象になってしまう。歌川芳藤の《髪切りの奇談》に描かれているのは、女の髪に食らいつく黒い獣のような妖怪。だが、銃剣を携えて駆けつけた官憲に照明を当てられ、いままさに退治されようとしている。妖怪は文明開化という灯りの陰に追いやられてしまったのだ。月岡芳年の錦絵にしても、震えるほど魅惑的な線が妖怪の妖しさを物語っている反面、江戸の妖怪に見られた底抜けの朗らかさは明らかに失われているのだ。
怖ろしさと親しみやすさの二重性。鳥山石燕に端を発する、こうした江戸の妖怪像の系譜は、戦後、石燕の妖怪をモデルとした水木しげるによって一時的かつ部分的に再興するものの、現代アートにはほとんど継承されなかった。実際、池田龍雄や小山田二郎の絵画を見ると、形態が抽象化され、色彩にも乏しいため、怖ろしくはあっても、決して楽しくはない。江戸の妖怪を声を上げて楽しんでいた来場者も、現代アートの展示室に入ると、とたんに言葉を失い、足早に出口を目指していたのは、悲しい事実である。
ただ、唯一、本展において江戸の伝統を現代アートに引き継いでいたのが、鎌田紀子である。鎌田が創り出しているのは、不気味な立体像。ひょろ長い手足とは対照的に、頭は異様に大きい。どこを見ているのか分からない虚ろな眼球が私たちの不安を増幅させるが、その一方でどういうわけか不思議な愛嬌がある。空間のあらゆるところに設置された彼らは、江戸の妖怪のように、あくまでも自由奔放で無邪気なのだ。江戸時代の妖怪表現が、面などわずかな例外を除いて、ほとんど平面に限られていたことを踏まえれば、鎌田は立体によって妖怪の今日的表現を発展させようとしていると言えよう。
もっとも傑出していたのが、襖の把手を壁面に並べて展示したインスタレーションである。大小さまざまな把手の内側の凹みに描かれた彼らは、いずれも窮屈そうだが、これこそまさに現代における妖怪の窮状を物語る象徴だろう。だが、襖の把手を左右にわずかでも動かせば、私たちの目前には妖怪たちがあふれる異界が広がるのかもしれない。江戸の妖怪を甦らせるには、例えば「ゆるキャラ」のような異形を乱発して満足するのではなく、私たち自身の想像力を鍛え上げる必要があるのではないか。

2013/08/20(火)(福住廉)

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