artscapeレビュー

えっ?『授業』の展覧会ー図工・美術をまなび直すー展

2013年11月01日号

会期:2013/09/14~2013/10/27

うらわ美術館[埼玉県]

美術教育の何が問題なのか。それは、美術の制作に重心を置くあまり、鑑賞教育がないがしろにされている点にある。制作と鑑賞が分断されたまま美術が教育されていると言ってもいい。こうした偏重は、大量のアーティスト予備軍を排出することで美術大学や美術予備校の経営的な基盤を確保している一方、結果的に「制作」を「鑑賞」より上位にみなす権威的な視線を制度化した。美術館における鑑賞者教育のプログラムは充実しつつあるが、それにしても「制作者」や「アーティスト」(あるいは、ここに「企画者」ないしは「キュレーター」を含めてもいいかもしれない)に匹敵するほど「鑑賞者」という立ち位置が確立されているわけではない。質的にも量的にも、鑑賞者を育むことを蔑ろにしてきたからこそ、市場を含めた美術の世界はことほどかように脆弱になっているのではないか。
本展は、小学校における図画工作および中学校における美術をテーマとした展覧会。明治以来の美術教育の変遷を貴重な資料によって振り返るとともに、現在、美術教育の現場で試行されているさまざまな実験的な授業を紹介した。展示されていた文科省による「児童・生徒指導要領の評価の変遷」を見ると、「鑑賞能力」は昭和36年から現在まで一貫して評価軸に含まれているにせよ、それが「表現能力」や「造形への関心」と交わることは、ついに一度もない。すなわち、制作と鑑賞の分断は制度的に歴史化されてきたのだった。
しかし、改めて振り返ってみれば一目瞭然であるように、制作と鑑賞の分離政策は美術に決して小さくない損害を与えてきた。従来の鑑賞教育は、「自由」という美辞麗句の陰に鑑賞を追いやり、方法としての鑑賞を練り上げることを放棄してきたため、結果として鑑賞と本来的に分かち難く結びついている批評を育むこともなかった。言うまでもなく批評とは批評家の専売特許ではないし、批評的視線を欠落させた鑑賞は鑑賞行為としても不十分であると言わざるをえない。批評の貧困は、批評家の力量不足もさることながら、鑑賞教育の乏しさにも由来しているのだ。
必要なのは、おそらく鑑賞=批評を「表現」としてとらえる視座である。制作と鑑賞を分離する従来の考え方では、制作は表現という上位概念に含まれることはあっても、鑑賞はそこから周到に排除されていた。しかし、批評が作品との直接的な出会いを契機として生み出される言語表現だとすれば、批評と直結した鑑賞もまた、そうした表現の一部として認めなければなるまい。「表現」という概念をいま以上に練り上げることによって、鑑賞を制作より下位に置くフレームを取り払うこと。そこに美術の未来はあるのではないだろうか。

2013/10/16(水)(福住廉)

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