artscapeレビュー

花咲くジイさん ~我が道を行く超経験者たち~

2014年12月01日号

会期:2014/08/16~2014/11/16

鞆の津ミュージアム[広島県]

「老人」の表現に焦点を当てた展覧会。漫画家の蛭子能収や発明家のドクター中松、具体の堀尾貞治、そして伝説のハプナー、ダダカンこと糸井貫二など、ほぼ無名の新人も含めた12人の老人たちが参加した。
現在の日本社会がまぎれもなく少子高齢化社会である以上、社会はおろか経済も芸術も、あらゆる分野にとって少子高齢化という項目は、無視しがたい項目のひとつと言うより、もはや社会全体の前提条件と言うべきである。老人たちがマジョリティーであるような社会がいずれ到来したとき、現代アートは、制度的にも内容的にも、いかなる様態で対応するのか。従来の鑑賞作法は通用するのか、あるいはなんらかの改変を余儀なくされるのか。批評言語は? 美術館のありようは? 考えるべきテーマは枚挙にいとまがない。「老人」という主題は、アウトサイダーアートや限界芸術として周縁化されがちだが、じつは優れて今日的なアクチュアリティーを内蔵しているのだ(この点をやすやすと見落としてしまう学芸員や美術評論家の批評眼は、間違いなく衰えているので金輪際信用してはならない)。
しかし本展は、残念ながらそうした社会的な意義を強力に訴える展観には至っていなかったように思われる。なぜなら、奇妙で奇天烈な表現活動に勤しんでいる老人たちは、本展においてじつに整然と鎮座していたからだ。きわめて手堅い展示手法が、老人たちの面白さを引き出すことに失敗していると言ってもいい。
例えば老人ホームへの入居を機に90歳を超えてから猛然と絵を描き始めた軸原一男。本展では壁面にそれらのドローイングを規則的に並べて展示していたが、これでは彼の表現に費やされている並々ならぬ欲動を伝えることは難しい。その熱い欲動が平面上の規則性に溶け込み、雲散霧消してしまうからだ。同じことはドクター中松についても言えるし、比較的にカオス的に展示された糸井貫二にしてももっと迫力のある展示手法があったのではないかと思わずにはいられない。彼らの魅力が半減してしまう展示は、いかにも惜しい。
おそらく本展には決定的に欠落している点が2つある。ひとつは、本展で紹介された老人たちが、本来的に、美術館の展示に不向きであるという認識。漫画家や発明家、ハプナー、あるいはほとんどアマチュアという属性が美術作品を展示するための美術館と相性がよくないというわけではない。そうではなく、彼らの表現が、そもそも美術を志向していないばかりか、場合によっては他者に伝達することすら想定していないような類のものだからだ。アウトサイダーアートでも見られるように、自己完結した表現は、他者性を前提とした美術とは根本的に馴染まない。それが成立しているように見えるのは、美術館をはじめとする美術という「見る制度」が彼らの表現を「アウトサイダーアート」として囲い込んでいるからにほかならない。本展は、アウトサイダーアートと同じ轍を踏んでいるように思えてならないのである。
もともと美術館に適当ではない表現を、その特性を抑圧することなく、できるだけ活かしながら見せるには、ある種の工夫、すなわちキュレーションが必要である。しかしキュレーションとは、事物を整然と並べることで小宇宙を構成することを意味しているわけではない。どの作品をどこでどのように見せるのかという人為的な作業は、それらが特定の個人に由来する点で、中立公正ではありえないし、物理的な制約があるとはいえ、基本的には特定の個人の発想にかかっている。つまりキュレーションとは、明らかに表現なのだ。
もし表現としてのキュレーションを追究していれば、あれほど中庸な展示にはなりえなかったはずだし、手強い老人たちの表現と共振することで、まったく別の展観となっていたはずである。美術館外の活動を積極的に展開していることは高く評価するべきだが、それより前に美術館の内側でやるべき仕事が残されているのではないか。この美術館は企画展のアクチュアリティーの点で言えば全国随一であるだけに、もう一歩踏み込むことを期待せずにはいられない。

2014/11/03(月)(福住廉)

2014年12月01日号の
artscapeレビュー