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大阪万博1970 デザインプロジェクト

2015年05月15日号

会期:2015/03/20~2015/05/17

東京国立近代美術館[東京都]

シンボルマークの制定やポスター制作などの事前のプロモーション、ピクトグラムやサイン計画、ストリートファニチャーなどの施設デザイン、そして各パビリオンの制服まで、1970年の大阪万博に関わったさまざまなデザインワークを紹介する展覧会。建築や美術、サブカルチャーの視点から大阪万博を見る試みは多いが、これをデザインの視点から検証する企画は寡聞にして知らず。とても興味深く見た。
 「東京オリンピック1964デザインプロジェクト」(東京国立近代美術館、2013/2/13~5/26)に続いて本展を企画した木田拓也・東京国立近代美術館工芸課主任研究員によれば、東京オリンピック、そして大阪万博のデザインプロジェクトには、1960年に開催された世界デザイン会議を起点として共通するデザイン・ポリシーが存在するという。ひとつはデザイナーの社会的役割。「デザイナーとはたんに産業社会の一員として企業や商品の広告宣伝を担う職業ではなく、その仕事を通じて社会の変革を促す力を備えた思想家のような存在でもあるという自覚」。これが「1960年代の日本のデザイン界の底流には流れていた」とするのである(本展図録、11頁)。もうひとつは「一貫性のあるデザインポリシーの確立」という実務的な側面である。具体的には最初にシンボルマークを決定し、そこからポスターなどのデザインを派生させるという方法で、世界デザイン会議でも、東京オリンピックでも、そして大阪万博でも、勝見勝のディレクションのもとに、同様の手法が試みられた(同、12頁)。
 しかしながら、ポリシーが存在したということと、それが実現され得たかどうかとはまた別の話である。実際のところ、大阪万博では「デザインに一貫性がみられず、水準にもばらつきがあった」(同、13頁)のである。なにしろ、シンボルマークの決定自体に躓きがあった。1966年に行なわれた指名コンペで選出された西島伊三雄の作品が石坂泰三・万博協会会長によって「抽象的で大衆性がない」と酷評されて却下され、選考がやり直しになったのだ。再度のコンペでは石坂会長も審査員に加わり、桜の花をモチーフにした大高猛の作品が選ばれた。現在から振り返ってみれば、大高猛によるシンボルマークは大阪万博のイメージと固く結びついて記憶されているし、万博というイベントそのものも想定以上の成功に終わったことを考えれば、事後的にはデザインも成功であったと言ってよいのかもしれない。しかし同時代には多くの批判を受けている。勝見勝は大高の作品を称賛したが、それならば最初に選ばれた西島伊三雄の作品はなんだったのか。デザイナーのなかには桜という具象的なイメージを古くさいと批判した者もいたし、デザイン選考過程の混乱も批判された。川添登は、最初の提案が否定された時点で勝見勝委員長は辞任すべきだったと述べている。
 大阪万博において「一貫性のあるデザインポリシーの確立」ができなかったのはなぜだろうか。木田研究員は「(大阪万博の)デザイン懇談会とはあくまでも万博協会の外部の自主的な団体であり、その位置づけはあいまいで、諮問機関として十分な機能を果たせていなかった」とする(同、13頁)。端的に言えば、デザインに関するマスターシップの不在がその主因だったようだ。勝見勝は「デザイン委員長に事務総長相当の権限を与えない限り、十分なコントロールは不可能である」と批判したが、結局万博全体のデザインを主導する強力な組織はつくられることがなかった。マスターシップの不在は大阪万博のデザインに関わったデザイナーたちによる座談会の席でも指摘されている(「座談会:EXPO'70のデザイン・システムとプロセス」『工芸ニュース』第38巻第3号、1970年11月、53~61頁)。優れたポリシーがあったとしても、それが貫徹できないならばデザインが成功したとは言えない。組織という点では「せんい館」の展示プロデューサーであった吉村益信が興味深い証言をしている。横尾忠則をはじめとする多くのクリエーターが参加し、伝説となったせんい館の建築や展示プロジェクトには「施主、クライアント・サイドとも初めから非常に激烈なみぞ」があったという。それにも関わらずプランを貫徹できたのは「コア・スタッフというものをつくって、そのあと一切クライアントが文句をいえないような主導権をきっちりつくった」からであると同座談会で吉村は語っている。この事例と対比すれば、デザイン懇談会が当初のポリシーを貫徹できなかった理由は、彼らが万博デザインの主導権を握ることができなかったためと考えられよう。
 万博が成功したがゆえのデザインの失敗とも言える現象もあったようだ。入場者数は当初計画の1.5倍、約6500万人に上った。長蛇の列とその誘導、会場内の動線の確保、トイレや休憩所の不足など、事後になって顕在化した多くの問題点に臨機応変に対応できなかったこともまた、組織と運営の問題であろう。亀倉雄策は福田繁雄によるピクトグラムを評価しているが、トイレのサインについては人々が男女の区別をできず、男子トイレに女性が並んでいたことを指摘している(もっともこれは女子トイレの不足が主因だったようだが)。当初はピクトグラムだけだったサインがわかりにくいとされたために文字表記が後付けされた例もあったという。
 本展では検証されていないが、クローズドな場である世界デザイン会議と、2週間の会期であった東京オリンピックと、半年にわたって開催された万博とでは、デザインポリシーを共通としても予算、組織、運用には大きな違いがあったはずである。大阪万博後の最初の国家イベントである札幌オリンピックでこれらの問題点はどのように処理されたのか。デザインは進歩したのかどうか。「札幌オリンピック1972 デザインプロジェクト」として、ぜひとも検証してもらいたいと思う。[新川徳彦]

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2015/04/15(水)(SYNK)

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