artscapeレビュー

村川拓也『エヴェレットゴーストラインズ』Ver. B「顔」

2015年08月15日号

会期:2015/07/11

京都芸術センター[京都府]

『エヴェレットゴーストラインズ』のコンセプトについては、Ver. A「赤紙」のレビューを参照していただくとして、ここでは連続上映された4つのバージョンのうち、Ver. B「顔」(ある死の記憶を共有する特定のグループ数名の出演者達による上演。一人につき何枚かの指示が配られるが、どの指示に従うかは当人次第)を取り上げる。
Ver. B「顔」が秀逸だったのは、不在の対象(ある死者)「について」語られる前半の時間(証言、ドキュメンタリー)と、その不在の対象「と」語る後半の時間(フリをすること、フィクション、演劇)との落差を仕掛けることで、現実の行為とフィクションとの境界が判断不可能になる瞬間をまさに体感させた点にある。
前半では、演出家が依頼した「手紙」を受け取った出演者が1人ずつ登場し、椅子に座って演出家と向き合い、簡単な自己紹介の後、演出家からの質問に答える形で、ある死者についての記憶を語っていく。いわば、公開インタビューの形式だ。話題に上る死者は、水俣病のドキュメンタリー映画で知られ、後年は京都造形芸術大学で教鞭を取った映画監督の佐藤真で、舞台上に召喚される出演者は、大学での教え子たちだ。ここにいない不在の存在「について」語ることが前半の時間を占めているが、この「公開の証言」によって、果たしてどこまで佐藤真という人物の人となりに迫る狙いがあるのかは曖昧だ。主導権を握る演出家が投げかける質問は雑談も含み、佐藤本人よりも「目の前で話している人」の個性の方を浮き彫りにするように感じられるし、予めセットされたタイムキーパーが鳴れば、証言者は会話途中でも強制的に退場させられるからだ。だが、2巡目の質問で、「佐藤先生の死の知らせを受け取った時の状況や心境を話してください」と聞かれた時、一気に空気が重くなったのが肌で感じられ、また証言者同士の記憶に「食い違い」が生じた点は興味深い。
そして後半の時間では、演出家は席を外し、今度は「佐藤先生『と』会話して下さい」と要請される。無人になった椅子と向き合い、「先生、ご無沙汰してます」などの挨拶から始め、お世話になったお礼や近況報告などを、訥々と、照れ臭そうに、時に言葉につまりながら語り出す出演者たち。彼らは俳優ではなく、台本の再現でもなく、「演技」というには拙い誠実さにもかかわらず、いや、この上なく「誠実に」語りかけているからこそ、訓練された俳優の「演技」よりもある意味「感動的」なほどだ。しかし同時に、目の前にいない「佐藤先生」の姿やリアクションを心の中で描きながら「会話」する様子は、「演劇」に見えてしまう。ここで、先ほどまでナマの証言がなされていた時空間は、一気に演劇的な強度へと反転する。
「について語る」時間と、「と語る」時間。この落差の感取がVer. B「顔」の肝をなす。「について語る」時間が何ら演劇的に見えないのは、語る対象が「今ここにいない」ことが前提化されているからだ。逆に言うと、不在の対象についてのみ「語る」ことができる。一方、「と語る」時間は、目の前に相手がいれば日常的な行為だが、本作の場合、「対象が不在の状態」を前半から引きずったままなので、「フリ・虚構・演劇」へと接近する。
言い換えれば、前半の時間は、今ここにいない不在の存在(その最たるものが「死者」)を、語る行為を通して、(不完全な像ながらも)舞台上で語る人の脳裏/観客の想像の中に召喚しようとする時間であったのに対して、後半の時間は、「不在」として召喚した存在を、目の前に「いる」存在として投影して語る/見るように出演者/観客に要請する。この時、観念的な「不在」は、舞台上の今ここに「物理的にいない」存在へとすり替えられることで、「演劇的な時空間」が駆動させられる。
しかし同時に、前半の時間との連続性によって、リアルと虚構の境界が曖昧化する。出演者自体は前半と同じく、あくまで「本人のまま」振る舞い、また「思い出」「訃報の記憶」を語る複数の証言の蓄積を通して、「佐藤先生は架空の人物ではなく、確かにいた」実在性が担保されているため、非再現的な出来事でありつつ演劇的に見えてしまう、という宙吊り状態が出現するのだ。この引き裂かれた、アンビヴァレントな感覚を味わうこと。物語の力や俳優の技量によって感情的に揺さぶられるのではなく、感情的喚起と論理的了解が合致しない状態を味わわされることが、村川作品の特異性であり、通底する「残酷さ」である。

2015/07/11(土)(高嶋慈)

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