artscapeレビュー

人生スイッチ

2015年09月01日号

会期:2015/07/25

ヒューマントラストシネマ有楽町[東京都]

ペドロ・アルモドバル製作、ダミアン・ジフロン監督によるアルゼンチン映画。ささいなきっかけから不運の連鎖に巻き込まれ、人生の軌道から転落していく人々の悲喜劇を、6つの物語によって描いた。いずれの物語も短時間ながら、度肝を抜かれるほど思いがけない展開で、最後まで楽しむことができる。
通底しているのは、いわゆるブラック・ユーモア。山奥の田舎道で交通トラブルに直面した男が相手の男と死闘を繰り広げた末、「心中」してしまう話や、飛行機に乗り合わせた乗客がパイロットによって計画的に乗機させられていた話などは、腹の底から笑いつつも、喉元に一抹の後味の悪さが残る、きわめて良質の暗い笑い話である。
しかし、この映画で考えさせられたのは、ブラックユーモアの鋭さというより、その骨子である物語の強度についてである。例えば、ボンビーナこと爆弾男の話。ビルを爆破する解体職人の男は、駐車違反区域ではないにもかかわらず、路上に停めていた車をレッカー移動されてしまう。不当を訴えるが無視され、窓口で大暴れしたところ大々的に報道。すると妻から離婚を言い渡され、会社からも解雇され、再びレッカー移動。負の連鎖に苛まれた男は、ついに会社の倉庫から大量の爆弾を盗み出し、自分の車のトランクに仕掛ける。カフェで待ち構えていると、案の定、目の前で車がレッカー移動され、陸運局の駐車場に運ばれたところを見計らってスイッチを押す──。
この作品にかぎらず、多くの物語映画は現実と虚構の均衡関係のうえに成り立っている。ところが、本来的に物語映画は虚構であるにもかかわらず、昨今は現実の側に傾いてしまう作品が少なくない。せっかく虚構の世界を突き詰めていたのに、最後の最後で現実の規則に絡め取られる作品に興醒めさせられることが多いのだ。だが、ボンビーナの物語が優れているのは、虚構であることを最後まで貫き、虚構ならではの痛快なカタルシスを観客に存分に与えているからだ。窓口のガラスを粉々に粉砕しながら大爆発するシーンは、不条理なレッカー移動に対して観客の心中に鬱積していた憤懣をきれいさっぱり吹き飛ばしたに違いない。
むろん、とりわけ東日本大震災以後、あるいは昨今の政治状況を鑑みれば、「事実は小説よりも奇なり」と言わざるをえないほど、現実は虚構を圧倒していることは間違いない。けれども、だからこそ、虚構は虚構の力を再定義する必要があるのではないか。ことは映画にかぎらないことは、言うまでもない。

2015/08/12(水)(福住廉)

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