2018年05月15日号
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artscapeレビュー

川村美紀子新作ダンス『まぼろしの夜明け』

2015年11月01日号

会期:2015/10/09~2015/10/11

シアタートラム[東京都]

上演時間80分の内、最初の50分まで、舞台の上ではほぼなにも起こらない。『ボレロ』の舞台に似た舞台を囲み、観客はずっと立たされたまま、「なにも起こらない」ことの意味を探った。爆音でハウス系(?)の音楽が鳴り、照明はミラーボールその他があたりを照らしているのだが、スモークがときおり舞台を吹き付ける以外は、6人のダンサーはずっと寝たままだ。腕がちょっと上がったりするが、しばらくすると倒れてしまう。残り30分くらいからか、一人の上体が起き、するともう一人も背中が立ち、残り10分となるころ、一人立ち、二人立ち、最後の一人が両足で立ったかと思われた瞬間に、暗転。明転後に拍手はなかった。足早に帰る観客のなかには、明らかに不満を表わしている者もいた。この上演に、ポストモダン・ダンスとの関連性を推測したり「ノン・ダンス」なんて言葉を当てがったりするのは、筋違いだと私は考えている。あるいは、ゆっくりと起床する様に、審美的な評価を与えようとするなら、そのひとは便器にも美を見出すことだろう。ここにあるのは、デュシャンの連想に乗じてさらに遊戯的に説明するなら、「寝ているだけでも上演になる」という一種の錬金術だろう。ふざけてる。このおふざけを「不思議ちゃんの踊り子がしたこと」として受容することが、ふさわしいことなのかがわからない。彼女を「ダンス界のアンファン・テリブル」と形容するダンス批評は、上演を作品としてというよりも踊り手=恐るべき子どもの行ないとして捉えているのだろう。そこに置かれた「親」と「子」の図式に、川村も乗っかっているように見えるからやっかいだ。「ヒトは、どれくらい踊れるだろう?」とフライヤーにあって、そのうえでのダンスの不在。狡猾だ。けれども、その狡猾さが親に対する子の反抗のように思えてしまう。内輪でヒートしても、外部には伝わらない、外部は盛り上がれない。

2015/10/09(金)(木村覚)

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