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まちがやって来た──大正・昭和 大田区のまちづくり

2015年12月01日号

会期:2015/10/25~2015/12/13

大田区立郷土博物館[東京都]

東京23区で3番目に人口が多い大田区★1の人口は現在約71万人。東京の南側、神奈川県に接するこの地域の人口は、明治から大正初年ごろには6万人程度であったというから、100年の間に12倍に増えたことになる。ではこのような人口の膨張はいつごろ生じたのか。筆者には戦後高度成長期とともに人口が増加したという印象があったが、まったく違った。この地域の人口が急増したのは昭和のはじめ。昭和7(1932)年には27万人、昭和17(1942)年には61万人と、30年ほどの間に人口は10倍に増大している。つまり戦後の人口増加は10万人強に過ぎず、市街地化は戦前期にほぼ完了していたことになる。現在東京23区でもっとも住民が多い世田谷区で人口が60万人を超えたのは1950年代後半、2番目の練馬区は1980年代後半なので、大田区の市街地化はこれらの地域とはかなりパターンが異なる。大田区の隣に位置する品川区は、面積が小さいために大田区ほどではないけれども、昭和初期に人口が急増している点で似たパターンが見られる★2
 東京湾に面した地域は漁業で、内陸部は近郊農業として江戸から明治にかけて発展してきたこの地域は、どのようにしてこれほど急速に街へと変貌を遂げたのか。本展は戦前期における地域の変化の様相を「市街地化」「交通公共インフラ」「工場」「学校」「住宅地」「流行と文化」「天災と人災」という七つのテーマに分け、文書、写真、地図、模型などの史資料を用いて考察している。もちろん実際のできごとはどれかひとつのテーマに収束できるものではない。たとえば、天災や人災は人がいるところに起きるのであって、それは市街地化、住宅地の拡大の結果でもある。天災は間接的にも影響している。関東大震災のころはまだ開発途上であった大田区地域には、被害が大きかった都心から工場や学校、人家、寺院などが移転してきた。昭和初期には同潤会が雪が谷など区内4箇所で住宅を分譲している。他方でこれらの施設が人を受け入れることができたのは、震災前からすでに区画整理事業などによって農地が市街地化しつつあったからだ。臨海部には海上輸送の便もあって工業が展開し、労働者のための社宅が建設され青年学校が設けられる。工業の発展は戦時期において地域の経済を発展させたが、米軍による空襲という人災を招くことになる。こうした地域の発展と人口増の因果関係は一方通行とは限らない。私鉄路線の敷設は人口増の結果でもあり原因でもある。上水道の敷設や道路建設といったその他のインフラ整備もまた、人口増と相互関係にあることが示されている。
 展示構成はとても工夫されている。最初に七つのテーマをパネルと史料で概説することで相互の関係を示し、のちに個々のテーマを事例で掘り下げる。また、大正から昭和初期に作家たちが暮らした馬込文士村の史料、漁業、軽工業の展開などは既存の常設展示を企画展示のなかに上手く取り込んでいるのだ。[新川徳彦]

★1──東京府荏原郡の町村が1932(昭和7)年に東京市に編入されてできた「大森区」と「蒲田区」が1947(昭和22)年に合併し、それぞれから1字をとって「大田区」となった。
★2──大田区の人口については展示解説から(出典は大田区史とのこと)。その他は「東京都統計年鑑(平成25年)」による。

2015/11/19(木)(SYNK)

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