2018年01月15日号
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artscapeレビュー

岡崎藝術座『イスラ!イスラ!イスラ!』

2016年01月15日号

会期:2015/12/17~2016/12/20

京都芸術センター[京都府]

岡崎藝術座を主宰する神里雄大の書くテクストは、戯曲というよりむしろ小説を朗読しているように聴こえる。一人称の視点で語られる長大なモノローグ。詩の言語のように、唐突に接合される語句と語句。その飛躍や比喩の密度は詩的なイマジネーションを喚起し、畳みかけるような演説調の語りとあいまって、俳優の身体から発せられる言葉の熱量を高めていく。
本作『イスラ!イスラ!イスラ!』では、「イスラ(スペイン語で「島」の意)」を連呼するタイトルが示すように、「諸君!」という呼びかけで始まる長大な「演説」という体裁を取ったモノローグが、5人の俳優によって順番に語られていく。水槽や観葉植物、紐のれんが設置され、枠組みだけのドアで内と外を区切られ、「室内」に見立てられた空間に、5人の俳優たちは履き物を脱いであがる。彼らは動物や鳥をかたどった呪術的でカラフルな仮面をかぶっているが、服装はTシャツや綿パンなどカジュアルで現代的だ。動物や鳥の鳴き声を口々にたてた喧騒の時間の後、仮面の語り手たちは、一人ずつ順番に長大なモノローグを語っていく。それは、遥か古代から現代に至るまでの、ある「島」の壮大な歴史である。
意識が世界から分離する以前の、混沌とした、悠久の、神話的な時間。大海原と溶け合って波間を漂う何者かの意識は、やがて海流に運ばれ、ある島に漂着する。意識の覚醒。それは人格神のような存在であり(プライドが高く喜怒哀楽が実に豊かだ)、「王」を名乗って統治を始め、「野蛮」で「言葉を介さない」島民たちに「第1号」「第2号」「第4号」……と番号を振って管理下に置こうとする。統治の第一段階は、文明化に費やされる。学校、病院、監獄といった施設を建て、教育を施し、「清潔」や「善悪」の観念を植え付けようと奮闘する。
第二段階では、異質な外部との接触による様々な変化が島にもたらされる。たまたま漂着して島に根付き、産業化や観光化といった「発展」をもくろむ者、捕鯨船の拠点や貿易の話をもちかける者。外部からの移住者も増え、様々な文化や言語が持ち込まれる。そして第三段階では、この島にも加速する近代化の波が押し寄せ、戦争による爆撃や開発・埋め立てによる「私の身体」の変容が語られる。つまり、一人称の話者は、「島」そのものであることが明かされるのだ。
時代の変遷とともに交替する語り手は、交替の度に、歌や足踏みといった儀式的所作が繰り返されることで、「王」すなわち統治者の代替わりを思わせる。それは、祖霊信仰やアニミズムのように、死者の魂が島全体と一体化していることを示唆し、そうした地霊のような島の声は、仮面をかぶってヒトならざる者へと変化(へんげ)した語り手によって、私たちの元に送り届けられる。その声は、文明化に始まり、交易、移民、産業化、植民地、戦争、開発といった人類の歴史が凝縮された物語の内に、多人種・多言語・多文化の交錯する島の姿を描き出すとともに、人間中心的な視点を相対化してみせる。
そうした架空の島の歴史を想像することは、詩的跳躍力を豊潤に湛えた言葉により誘われつつも、一方で、目の前で繰り広げられる光景との落差が、想像力の駆動に絶えず介入し、演劇的なイリュージョンの生成を拒む。豊穣な詩的言語が想像へ誘う引力に対して、目の前の物理的空間や俳優の身体的現前が、絶えず現実へと引き戻そうとする斥力のように働き、一種の異化作用をもたらすのだ。履き物を脱いであがる、日本のワンルームの室内空間。カジュアルな普段着。とりわけ、劇中でただ一人、終始、足漕ぎペダルで自家発電を行なってライトを点灯し続ける俳優が、特異な存在感を放つ。俳優の肉体によって現前で行なわれ続ける労働は、「光」を生み出すが、それはアニミズム的な「神」の威光を示す装置であると同時に、この閉鎖的な室内空間をあるがままに照らし出す。多人種・多言語・多文化の混淆した、ある種のユートピアとしてのハイブリッドな「島」への想像と、しかし、「ここ日本の平均的な日常空間」という閉鎖空間にあってはいかにそれが困難か、ということが同時に露呈されている。だから終幕で、俳優たちは履き物を履いて敷居をまたぎ、舞台設定としての「部屋」、「ハコ」としての劇場、さらには閉じた想像力という閉鎖空間の「外部」へとつながる通路を求めて、歩き去っていくのだ。

2015/12/19(土)(高嶋慈)

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