2018年07月15日号
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artscapeレビュー

福留麻里『そこで眠る、これを起こす、ここに起こされる』

2016年01月15日号

会期:2015/12/22~2015/12/23

世田谷美術館[東京都]

本作は、「トランス/エントランス」という企画の第14弾。毎度、世田谷美術館のエントランス・ホールを使って行なわれるパフォーマンスのプログラム、10年目を迎える今回は福留麻里のソロダンスだった。特定の場をリサーチして、その場の歴史や環境を掘り起こし、そこから見出された事象の意味を芸術の方法を用いて引き出すというタイプの試みは、とくに美術の分野ではいまや当たり前の形態だ。とりわけ、「地域アート」として括られる多くの国際トリエンナーレでは、個々の作家が最新作の展示をその場で披露する意味が乏しく、その代わりに価値が感じられるのは、地域をリサーチしたうえでそこから見出されたものに光を当てた展示といった状況がある。すなわち、ホワイト・キューブのニュートラルな(展示する作品を限定しない)性質にふさわしいニュートラルな(展示する場を限定しない)作品ではなく、むしろ場のローカリティを無視せずにその場所の性格にふさわしい表現、その性格に拮抗する表現が求められているということだろう。そういうことであるならば、自ずとアートはこれまでの自分自身の性格(例えば、作家という個の内面の発露といった性格)を変更せざるを得なくなるだろうし、現在、その過渡期にあらゆるアート表現は直面していると考えるべきだろう。さて、そんな状況にダンスはどう答えるのか? 福留麻里が今作で挑んだのは、こんな問いだったのかもしれない。世田谷美術館は広大な砧公園に置かれているが、本作は、福留が公園と美術館とに足繁く通ったその「調査」の様子を反映したものとなっていた。ときに、その場に棲む鳥や小動物や昆虫のようになって、また福留本人として、福留はエントランスホールに散りばめたオブジェたち(小枝や靴や小物たち)と対話する。その動きは福留らしく、とても繊細で、丁寧だ。とはいえ、同時に感じられるのは、「なぜ、ここにいるのが、福留なのか?」という問いだったりする。ダンサーはここで観客と「ここ」をつなぐ役割をなす。あるいはダンサーは反響板となって、観客の前に「ここ」を映し出す。それがどうしてこの(福留麻里という)反響板なのか? 筆者は個人的に福留麻里という振付家・ダンサーを敬愛している。繊細で丁寧なダンスは掛け替えのないものだ。だからこそあえて問いたくなる。観客とリサーチ対象とをつなぐ「メディア」として、ダンサーはその個性をどう発揮するべきなのか? 個性は「メディア」のノイズとなる面もあるかもしれない。もし欲深くなってよいなら、この上演に「振り付け」があったらよかったのではと思う。福留麻里という特権的な身体でしか踊れないものではない「振り付け」が。その振り付けが場と観客とをダイレクトにつなぐものとなるならば、福留麻里は「機能」として透明化する(公共化する)ことだろう。そのとき福留の身体を観客は、福留らしい、場へのまなざしを体験しつつ、身体化することだろう。

2015/12/23(水)(木村覚)

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