2018年07月15日号
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artscapeレビュー

ダヴィデ・ヴォンパク「渇望」

2016年04月15日号

会期:2016/03/05~2016/03/07

ロームシアター京都 ノースホール[京都府]

「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇1本目。
背丈より高い、2mほどの壁が半円形状に弧を描いている。金屏風のようにまばゆく輝く壁は、開演と同時に照明が切り替えられ、冴え冴えとした銀色に変わる。すると男が一人、現われた。ダイバースーツを思わせるゴムっぽい素材の黒い服。その上に、無言のまま開いた口からヨダレが滴り落ち、幾本もの筋をつくる。ガッゴッ、ズゥー、ズルズルズル……。うがいやゲップ、咀嚼のような耳障りな音が喉から漏れる。誇張というよりは、顔全体の筋肉が無理やり動かされているかのように、大きく歪む表情。登場した男女2名ずつのダンサーたちは、原始的な言語のような音を漏らし、笑い合い、唾をかけ合い、奇妙な会話を交わしているようにも威嚇し合っているようにも見える。痙攣した笑いが全身へと波及し、硬直した手足を引きつらせる。その様子を、壁から上半身を出した女性と男性が、彫像のように冷ややかに、黙した番人のように見守っている。

動物化した非理性的な状態は、相手の目玉や手足に食らいつくような仕草や、鳥のような鳴き声を発しながら、はだけた乳房を手で捏ねくり回すなど、発情期の動物の異性アピールのような仕草へと発展する。性愛への示唆は濃厚だが、どこかコミカルだ。剥き出した腹をパン、パン、パンとぶつけ合って奇妙なスキンシップを交わし、向き合った身体を密着させ、互いの尻の肉をつかみ合う。男女かまわず交わされるキスは、愛撫というより、互いの口から相手を食い合い、むさぼり尽くそうとしているように見える。性愛と食人。その境界は、人間と動物の境界と同様、ひどく曖昧だ。やがて彼らは全員、尻を剥き出しにしたまま、組んずほぐれつの行為を繰り広げ、「観察者」あるいは「番人」然として外部からの眼差しのフレームを体現していた男女2名まで飲み込んでしまう。気がつくと、壁の上には剥き出しの尻が二つ乗っかっているのだ。即物的な「肉」の提示と、それへの渇望。理性の番人が不在のまま、舞台上の4名は泣き、叫び、痙攣したように笑い、動物の鳴き声や咆哮を上げ、遂には自慰や性交、出産を擬似的にパフォームする。

終盤では、互いのエネルギーを消尽し尽くしたかのように無人になった空間が、激しいビートに合わせて強まっては弱まる照明に照らされる。呼吸や脈動を思わせる有機的な光の明滅。私たち観客もまた、得体の知れない巨大な生き物に食べられて体内に取り込まれた感覚に襲われた。ガァー、ゴッゴッ、ヅルヅルヅル、ピィ~ピピピピ、アァ~、ギャァー……。言葉にならない無数の声だけが、残響のようにいつまでも耳の奥にこだまする。それは本能に回帰した叫びなのか、言葉=理性を奪われた叫びなのか。何が彼らをそのように変容させたのか。説明が一切ないことが、見る者の想像力をかき立てる。

理性的な言語を話すことを封じられた「口」。しかし発話への従属・拘束を解かれた「口」の運動が、全身へと波及するさまざまな動きを引き出していく。通常のダンス作品では前景化されることのない「口」をムーブメントの基点に据える、つまり「口」の物理的・身体的前景化によって、音やヨダレが内部から漏れる開口部、泣く、笑う、叫びや恐れといった根源的な感情の表出、食物の摂取、性愛行為、といった発話以外の機能が最大限に提示される。声や感情を外へと吐き出す開口部であるとともに、異物を内部へ取り込むための器官でもある「口」。その怪物性。ペルソナとしての顔の表面に開けられた「口」は、食物の摂取を通して性的エネルギーを充填させる、こんなにも猥雑で貪欲な器官なのだ。そこでは、互いを貪り合うようなキスが象徴するように、食人も性愛も、相手の肉体の所有・同一化への欲望という点では同質である。その欲望が、内部/外部、自/他の境界を脅かす侵犯へと向かうからこそ、文化的な「タブー」が発生する。本作は、「口」という普遍的でシンプルな器官から出発して、理性的な言語の発話を封じることで、逆説的にその豊かな運動や音響性を示すとともに、タブーとその侵犯という人類学的な射程を、ダンス=身体の芸術として浮かび上がらせていた。


ダヴィデ・ヴォンパク「渇望」
(c) Marc Coudrais

2016/03/05(土)(高嶋慈)

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