2024年03月01日号
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artscapeレビュー

マヌエラ・インファンテ / テアトロ・デ・チレ「動物園」

2016年04月15日号

会期:2016/03/25~2016/03/27

京都芸術センター 講堂[京都府]

「KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRING」公式プログラム観劇9本目。
1990年までピノチェト独裁が続いた南米チリで、「ポスト独裁主義世代」を代表する新鋭、マヌエラ・インファンテと、彼女が主宰する演劇グループ「テアトロ・デ・チレ」による演劇作品。ユーモアに富みながら、知的な批判性が冴えわたり、多岐にわたる問題群を提起する。支配的な言語と権力、科学とフィクションの境界、西洋近代的な知と帝国主義、文化の「保護」に内在する支配/被支配関係、「異民族の展示」という負の歴史、西欧/非西欧の非対称性、眼差す行為と倫理性、他者の「模倣」、ポスト植民地国のアイデンティティ、「演じること」とアイデンティティの決定不可能性、翻訳の(不)可能性……。
「動物園」は、「絶滅したと思われていた原住民の生き残り2名を発見した」文化人類学者によるレクチャーという形式で展開する。学者たちは、モニターで写真や映像、グラフなどを見せ、ダーウィンの『進化論』を引用しながら、スペインの入植以降、迫害と抑圧を受けて減少の一途をたどってきた原住民インディオの歴史について、観客に語りかける。スペイン語で語る学者の言葉は、日本語字幕で表示されるが、PCで字幕を操作する女性も舞台端に姿を現わしており、通常の外国語上演においては透明な媒体であるはずの「字幕」の存在感をアピールし、「話者はいったい誰か」という問いを提示するとともに、この「レクチャー」自体の虚構性を露呈させる。
どこまでが本当かフィクションか曖昧なレクチャーに続いて、「原住民の生き残り2名」が連れて来られる。彼らがフルフェイスのヘルメットを被せられているのも、「発見」後は秘密裏に研究室に隔離されていたのも、文化の純粋性の「保護」のためであると説明される。(異)文化の「保護」に潜む支配関係と、隔離や監視というかたちを取ったその発動。続けて、原住民との「ファーストコンタクト」の経緯、「トゥソイヨ」という彼らの名前、口頭伝承のみで文字言語を持たないこと、習慣的言動や身体的特徴などが、「証拠映像」を用いてレクチャーされていく。だが、「証拠映像」の存在は、逆説的にレクチャーの胡散臭さを強調し、モニターはたびたび「故障」する。接触不良を起こしたモニターに映るカラーバーに反応し、謎の踊りと歌を儀式めいた所作で行なう原住民たち。彼らは、大音響で流されるポップソングやノイズにパニック状態を起こし、舞台裏へ退場させられてしまう。そして、身体的にも非力で、技術的発展や防衛本能を持たないとされる彼らは、「他者を模倣する文化」によって今日まで生き延びてきたことが、生存の重要な秘密として告げられる……。
だがここで、「退場」した原住民が白衣を着て現われ、PCを無言で操作すると、字幕が次のように告げ始める。「「トゥソイヨ(Tu soy yo)」とは、スペイン語で「あなたは私」を意味します。私は本当は文化人類学部の教授です。ご覧の通り、彼らはほぼ完全に姿を消してしまいました」。つまり、「模倣の文化」によって生き延びてきた原住民たちは、自分たちを観察していた文化人類学者の言動を「コピー」することで、観察者と被観察者の立場を入れ替え、優位関係を逆転させてしまっていたのだ。「動物園」とは、観察者の振る舞いそれ自体を、研究室という彼らにとっての「自然環境」において「観察」する、という非肉な装置に他ならない。
この痛快などんでん返しは、真実を告げるというより、むしろ真偽の境界を曖昧な決定不可能性のうちに宙吊りにしてしまう。いかにも学者然としてレクチャーを行なっていたのが、実は原住民による「演技」なのであれば、その時「原住民」役を演じていたのは、「本物の」学者ということになる。「これは演劇である」と了解済みで見ていたことが、二重の意味で「演じられていた」という、虚構の二重性。そこでは、言語によって規定されるアイデンティティもまた、確固なものではなく、容易く溶解・反転してしまう。「トゥソイヨ」という固有名それ自体が、自/他の区別の溶解、アイデンティティの決定不可能性を名指しているのだ。このシンプルな一文にはまた、西欧と植民地をめぐる権力関係とその転倒、そして両者のいびつな鏡像関係が書き込まれている。「あなたは私」という文は、植民地に対して同化・馴化を要請する命法であるとともに、優位的文化のコピーによってアイデンティティを内部から撹乱し書き替える「擬態」の戦略(ホミ・K・バーバ)でもある。そしてこのトリックが、「スペイン語圏以外の観客」に対してのみ有効に発動することを考えるとき、そこにはまた、字幕という補助装置に頼らざるを得ない「外国語の上演」「国際演劇祭」における翻訳の(不)可能性についての問いも横たわっている。

上:マヌエラ・インファンテ / テアトロ・デ・チレ「動物園」2014
(c) Valentino Zald var


下:マヌエラ・インファンテ/テアトロ・デ・チレ「動物園」
Photo: Yoshikazu Inoue

2016/03/26(土)(高嶋慈)

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