2018年07月15日号
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artscapeレビュー

アート・アーカイヴ資料展XIII「東京ビエンナーレ’70再び」

2016年05月15日号

会期:2016/02/22~2016/03/25

慶應義塾大学アート・スペース[東京都]

中原佑介(1931-2011)は、京都大学の湯川秀樹のもとで理論物理学を学んでいたが、在学中の1955年、評論「創造のための批評」が『美術批評』誌の評論募集で一席に選出されたことを契機に上京、本格的に美術評論家としての活動を始めた。その出発点からちょうど15年後の1970年、中原は東京都美術館を会場に「第10回日本国際美術展 人間と物質」展を企画した。近年大きな注目を集めているこの伝説的な展覧会の全容を、残された資料や関係者へのインタビューなどをとおして解明した調査研究の成果を発表したのが、本展である。
会場に展示されたのは、したがって「人間と物質」展に出品された作品そのものではなく、それらの作品を設置する作業を記録した写真や会場内の空間を再現した縮小模型、そして展覧会の図録など、おびただしい資料群。調査研究の焦点が、とりわけ誰の作品がどこに設置されていたのかという点を正確に把握する側面に当てられていたせいか、縮小模型と記録写真を併せて見ると、未見の展覧会を垣間見るかのようなイリュージョンを楽しむことができた。会場で配布された50頁に及ぶ小冊子も、資料的価値が高い。
注目したのは、この展覧会のチラシに掲載された短い言葉。なぜなら、それらはこの伝説的な展覧会の核心をみごとに凝縮しているように考えられるからだ。中原自身によるのか、あるいは事務局によるのか、次のような一文がある。
「出来合いの作品を並べる時代は過ぎました。世界美術の先端をゆく参加作家のうち3分の2が東京にやってきて、ロープをまき、布を敷きつめ、灰を盛り上げ、水を汲む。この大いなるナンセンスは、美術よりも音楽よりも文学よりもはるかにおおらかで、しかもそれらすべてを包み込んだ今日の芸術といっていいでしょう」。
事実、クリストは1階の彫刻室の全体を175枚の塗装用布で梱包し、ライナー・ルッテンベルクは灰を盛り上げた2つの山を250本の細い鋼鉄の棒でつないだ。重要なのは、中原がそのようなナンセンスを今日の芸術として、言い換えれば、最先端の現代美術として位置づけている点である。が、それだけではない。そのチラシには以下のような一文が続く。
「書物を読む人捨てた人、テレビを見る人飽きた人は、ためらわずに上野に行ってみてください。美術がこれほど身近に感じられることに、驚かずにはいられないでしょう」。
意外なことに、中原にとってナンセンスは美術に縁のない庶民でもリアリティーを感じることができるような類の美術だった。こうした企画者の見方が、鑑賞者の見方と必ずしも照応していなかったことは、今日よく知られている。本展では特に触れられていなかったが、「人間と物質」展の開催当時の評判は必ずしも芳しいものではなかった。中原はその批判的な言説をみずから分析している(『中原佑介批評選集第五巻「人間と物質」展の射程』現代企画室+BankART出版、2011)。「この新しい美術家たちが現実に対して鋭い発言を投げかけようと意図しながら、あまりにも観念的な世界に自ら閉じこもり、観衆にむしろ背を向けた姿勢を示しているのではないか」(小川正隆)、「身動きできずに、立ち尽くした。極北化願望のここまでの徹底。徹底の果ての、あやうく狂気。これほど、玩具製造精神に似て、しかもこれほどそれに遠いものがあるであろうか」(宗左近)、「彼らの意識にあるのは連帯なのであろうが、その秘儀的なジェスチュアからはおおらかな精神の広場を望むべくもない」(野村太郎)などなど。このような言説を手がかりにすれば、中原の希望的観測はおおむね外れたと言ってよい。
だが、そのような結果は火を見るより明らかだったはずだ。考えたいのは、なぜ中原は対話不在という謗りを免れないことがわかりきっていたナンセンスを、あえて庶民のリアリティーと直結させたプレゼンテーションを企てたのかという点にある。仮にそれが方便だったとしても、中原の真意はどこにあったのだろうか。
ひとつには、ラディカリズムを極限化させた60年代の反芸術への反省があったのかもしれない。それは、日常的な事物や廃物を素材として利用した点では庶民のリアリティーと共振したと言えるが、とりわけ反芸術パフォーマンスのハプニングや儀式は、生身の肉体を大々的に露出させたがゆえに隘路に陥り、ほどなくして自滅せざるをえなかった。もしかしたら中原は、そのようなラディカリズムの重心をあえて物質に傾けることで、それを転位させようとしたのではなかったか。
「人間と物質」展が、反芸術に代表される60年代の美術ともの派に代表される70年代の美術の結節点として考えられることは疑いない。だが、そこでいったいどのような価値観の転換があったのか、その内実については依然としてわからないことが多い。必要なのは、「人間」と「物質」のあいだの「精神」を解明することである。

2016/03/22(火)(福住廉)

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