2018年04月15日号
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artscapeレビュー

生誕140年 吉田博展

2016年06月01日号

会期:2016/04/09~2016/05/22

千葉市美術館[千葉県]

原田直次郎の敵対性が岡倉天心とアーネスト・フェノロサに照準を合わせていたとすれば、吉田博のそれは明確に黒田清輝に向けられていた。吉田博が黒田清輝を殴りつけたという逸話がまことしやかに語り継がれているのも、ことの真偽はともかく、そのような双方の敵対関係を如実に物語っている。あの中庸というよりむしろ凡庸な油彩画とは裏腹に、いやだからこそと言うべきか、東京美術学校西洋画科の教授にして帝国美術院の院長、さらには貴族院議員などを歴任した絶大な権力者に一撃を喰らわせるほど骨のある画家となれば、いやがおうにも期待が高まるではないか。
本展は、明治から大正、昭和にかけて一貫して風景を描いてきた吉田博の画業の全容を、およそ270点の作品や資料によって解き明かしたもの。小山正太郎が主宰した京都の画塾「不同舎」で洋画を学び、上京した後自費で渡米して水彩画の展覧会を成功させ、帰国後は凋落していた明治美術会を改組して「太平洋画会」を結成、さらに二度も欧米に渡り、晩年は木版画に転じたが、この長い画業のあいだ一貫して山岳や田園の風景を描き続けた。
例えば《東照宮、日光》(1899)。縦1メートルにも及ぶ大きな画面に日光東照宮の陽明門を描いた初期の水彩画だが、堅実な構図と緻密で克明な線描、だからといって描き込みすぎない抑揚のある筆致など、絶妙な均衡が保たれた傑作である。吉田博の不同舎時代を知る洋画家の三宅克己は「当時一般の水彩画と云えば、鉛筆画の淡彩と云った極めてあつさりしたものであつたが、吉田画伯の水彩画は、濃淡の色調も油絵式に絵に深みあり、運筆の妙技などに余り多く重きを置かず、只管明暗の表現に努めたものであつた」(田中淳「吉田博・吉田ふじをの水彩画(1)」『現代の眼』No.466、1993.9、p.6)と評価している。
そのような高い水準の水彩画を踏まえて、なお強く思い知らされたのは、吉田博が画題と画材の関係性を非常に強く意識していたのではないかという点である。彼がアメリカでいち早く成功を収めた水彩画で言えば、日本の農村を主題にした《朝霧》(1901-03)や《霧の農家》(1903)は湿潤な空気感を、同じく農村の雪景色を主題にした《篭坂》(1894-99)や《雪かき》(1902)は清冽な空気感を、それぞれ巧みに描き分けている。一転して《フロリダの熱帯植物園》(1906)や《ポンシデレオン旅館の中庭》(1906)では、同じく水彩画で熱帯特有の明るく乾いた空気感を再現しているから、吉田博は水溶性の画材の特性を最大限に活かしながら風土の多様性を描いてみせたのである。
では油彩画ではどうか。彼は盛んに日本アルプスに足を運んでいたが、野営を繰り返しながら描いた山岳画の大半は油彩画であった。それは急峻な山岳の稜線や険しい岩壁を描くには、おそらく水彩画より油彩画のほうが有効であると考えたからではなかったか。粘り気のあるメディウムによって描き出されているからこそ、見る者の脳裏にそのダイナミックなイメージが深く焼きつけられるのである。
画題にふさわしい画材を活用すること。あるいは画材に適した画題を選び取ること。吉田博の真髄は、おそらくこの点にある。だが木版画に関しては、その真髄が十分に発揮されなかったように思われる。それが従来の木版画には望めなかった繊細な光線や微妙な色彩のグラデーションを取り込んでいることは疑いない。けれども、細かい線によって分割された色面の世界が、国内外の景勝地の風土と照応しているようには到底思えない。画題と画材を有機的に統合するというより、むしろ特定の画材にさまざまな画題を無理やり押し込めたような強引さを感じざるをえないのである。
吉田博が木版画に挑戦したのは、1923年、3回目の渡米の際、現地の市場で幕末の粗悪な浮世絵が高値で取引されている現状を目の当たりにしたことに由来しているという。「外国人に見せても恥ずかしくない、新しい時代にふさわしい日本人ならではの新しい木版画を自らの手で作らねばならない、と強く思うようになったのである」(安永幸一「近代風景画の巨匠 吉田博─その生涯と芸術」『生誕140年吉田博』展図録、p.13)。幕末の浮世絵が粗悪かどうかはともかく、吉田博の視線が「日本人ならではの新しい木版画」に注がれたことは興味深い。なぜなら、ここには黒田清輝や原田直次郎が格闘した、西洋的な近代化と土着的な日本の相克という構造的な問題が根ざしているからだ。吉田博は近代日本にふさわしい近代版画を、おそらく黒田清輝や原田直次郎以上に、欧米の視線を肌で感じ取りながら、希求していた(なにしろ吉田博が初めて渡米した際、デトロイト美術館で催した展覧会での売上は、当時の小学校教諭のほぼ13年分に相当したという。このように海外での成功を独力で勝ち取ったという自負があったからこそ、吉田博は国家による厚遇を得ながら美術の制度化の過程に自らを投じていた黒田に憤激していたのだろう)。
さて吉田博の独自性は、その近代版画の活路を、例えば恩地孝四郎のように抽象性をもとにした創作版画ではなく、あくまでも線描に基づいた具象性に見出した点である。明瞭な線によって対象の輪郭をとらえ、色彩の微妙なグラデーションによって彩ること。吉田博の木版画は、現在の視点から見ると、その平面性も手伝って、アニメーションのセル画のように見えなくもない。だが、重要なのは吉田博が日本という土着的な世界で近代の版画を志したとき、手がかりとしたのが「線」だったという事実である。振り返ってみれば、水彩画はもちろん、色面を重視する油彩画にしても、輪郭線を強調していることが多い。どれだけ欧米で見聞を広めたとしても、つまりどれだけ新たな風景を目撃したとしても、そしてどれだけ油彩画や水彩画といった西洋絵画の技術を身につけたとしても、吉田博は線だけは決して手放さなかった。あるいは、手放すことができなかったとも言えなくもないが、いずれにせよ肝心なのは、吉田博は線によって「近代」に対峙したのである。
原田直次郎は近代日本の活路を土着日本と近代西洋の縫合に見出した。これに対して吉田博はそれを土着日本のなかに通底する線に求めた。それは、一見するとある種のアナクロニズムではあるが、そのアナクロニズムを貫いた水彩画や木版画が欧米で高く評価されたことを念頭に置けば、それをたんなる時代錯誤の方法論として切って捨てることはできなくなるはずだ。言ってみれば、吉田博は、近代化という不可逆的な歴史の流れに巻き込まれながらも、絵画や版画を手がけるときは、つねに後ろを向いていたのだ。その、一見すると退行的な身ぶりにこそ、ことのほか重要な意味がある。

2016/04/22(金)(福住廉)

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