2018年04月15日号
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artscapeレビュー

新聞家『帰る』

2016年10月01日号

会期:2016/07/08~2016/07/10

NICA|Nihonbashi Institute of Contemporary Arts[東京都]

今作は「座る」作品だった。男女二人、向かい合わず、どちらも観客に顔を向けて座る。メロン(美術担当の川内理香子によって毎回異なる果物が用意されたという)が切られ、二人は食べながら話をする。対話というのではない。二人は交代で独り言のように話す。台詞は前回ほどではないけれども、耳に残りにくい。二人の言葉は、不安や、誠実さをめぐって、具体的には、傾いでしまったマンションとそこからの退去をめぐって紡がれている。言葉、その発話、食べること、座ること、また二人が横に並ぶこと。これらのどれもが等距離で並ぶ。「演劇」がしばしば演劇的身体の構築にその他のすべての要素を従属させてしまうのに比べると、新聞家の舞台はすべての要素が並立している。といいつつ、これはじゃあ「舞台」なのか。そもそも「演劇」なのかと問いたくもなってくる。観客は、ぼーっとしてくる。眠いわけではない。一般的な「演劇」のように一方向に収斂していない分、観客は集中力を求められ、いつか「苦い」ような顔になってしまう。(この状態をダンス史で形容するならば、イヴォンヌ・レイナーの「トリオA」みたいだと言ってみたくなる。レイナーはこの作品を観客に見ることの難しさに気づいてもらうために作ったという)換言すれば、いかに既存の演劇が「演劇」であることに縛られているかが新聞家を見ていると分かる。「ファッション・デザイナーではないひとが作る洋服」のように、洋服ではあるにはあるが「洋服らしさ」に縛られていない何かに身を包まれる。そんな風に、新聞家の演劇には「演劇」が引き算されている。この大胆なマイナスが、この作品を文学にも、朗唱にも、食事会にも、絵画にもする。ぼくにはこの作品は絵画的だった。果物を食べる男の肖像画と女の肖像画を二枚、50分かけて見続ける、そんな絵画的質を伴う鑑賞だった。ほとんど動かず座り続ける役者たち。目は自ずと凝視に変わり、細かい仕掛けに目を奪われる絵画鑑賞のよう。しかし、絵画が空間に質を閉じ込めたのに対してここでは質は時間のうちに閉じ込められている。要素の「並立」が生む、独自の演劇は、「演劇」よりもネット的情報需要に似ている。(この感じに似たものをあえて探すならば、core of bellsの「デトロイトテクノ人形」に似ている)多種類の情報ソースがどれもヒエラルキーなしに目や耳に飛び込んでくる状態。そこには「演劇的身体」に相当する「身体」は特にない。そんな「身体」を探そうとすると、途端に本作が「抜け殻」に思えてくる。抜け殻が初めて与える何か、それこそ新聞家が提示する演劇なのだ。アフタートークから類推するに、村社祐太朗はその「何か」に「愛」を見ているようだ。ヒエラルキーの支配を停止して初めて生じる見ること聞くこと。そこには対象への愛を生む余地がある。複雑で「モダン」な経路をくぐって実は愛へと達するのが新聞家なのだ。

2016/07/10(日)(木村覚)

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