2018年06月15日号
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artscapeレビュー

あうるすぽっと+大駱駝艦プロデュース『はだかの王様』

2016年10月01日号

会期:2016/08/25~2016/08/28

あうるすぽっと[東京都]

アンデルセンの童話「皇帝の新しい服」をベースに、大駱駝艦の田村一行(振付・演出)が、夏休みに大人も子どもも楽しめる舞踏に挑んだ。多数のワークショップを小学校や中学校で行ない、子どもが出演する舞台『田村一行のとんずら』を作ってきた田村にとって、「子どもも楽しめる舞踏」という難題は、簡単ではないが克服できるものと映っただろう。驚きだったのは、いわゆる子どもっぽい演出はほとんどなかったこと、しかも、正攻法で攻めたという以上に、「はだか」というモチーフに「白塗り」という舞踏らしい特徴を重ねて見る批評的野心が垣間見えたことだ。冒頭で、舞台に現われた役者たちは肌を白く塗ってゆく。「これから舞踏がはじまるよ」と告げているようだ。お話は、衣服=見栄・虚飾を軸に進む。仕立て屋の作る「バカには見えない服」=「はだか」は、ここでは「舞踏家の白い肌」となる。ただし、そうなると、「虚栄の果てにはだかを新しい衣服と思い込む愚かな王様」が「舞踏」ということになってしまう。もとのお話と異なる点として、新しい衣服のための布は王様から仕立て屋に渡されていた。そうであるなら、王様は自らを騙すように自らにはだかの服を着せたのではないか? そう推測できる。しかし、なぜ? テーマは舞踏でありその虚構性ということなのか? そのあたりが難解に思えた。
ところで、王様がはだかであることを指摘するのは子どもだ。虚栄と知りつつ逃れられない大人に対し、子どもはそれが虚であると無邪気に告げる。大人にとって自らの愚かさを振り返るものだとして、では子どもはそんな「はだかの王様」のお話をどう読むのだろう。子どもにとってみればいつもの自分が舞台化されているわけだ。まさに、という場面があった。男たちが客席に現れて「お前たちのなかで◯◯(の内容を失念してしまった。失敬)出来る者はおらぬか」と語りかけるともなく客席に言葉を投げる。それが劇の言葉と介さずに「出来るよ!」と一人の男の子が客席から立って男たちの方に迫ってきた。第四の壁という演劇的お約束を意に介さない彼こそ「王様をはだかと呼んだ子ども」そのものだ。この子どもがその場でほとんどスルーされてしまったのは少し残念だった。こんなところを考えると「大人も子どもも楽しめる」とは難題だ。大人は嘘を楽しむ。子どもは嘘を暴きたがる。前者は劇の嘘を愛し、後者は劇の嘘を見抜く。劇の構築と解体。ここではその二つのベクトルが緊張を保って進まざるをえない。ぼくは解体する子どものエネルギーに加担したくなるが、舞台作品が解体の一途を辿ることは自己否定に陥ることになろう。ただし、この緊張に迫っている本作には、次へと向かう予兆があったと思うのだ。

2016/08/26(金)(木村覚)

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