2018年07月15日号
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artscapeレビュー

クレア・カニンガム『Give Me a Reason to Live』

2017年03月01日号

会期:2017/02/04~2017/02/05

KAAT[神奈川県]

2012年のロンドン・オリンピックの関連イベント、「アンリミテッド」で注目を集めたクレア・カニンガムの日本初公演。「松葉杖のダンサー」というだけで、私たちは舞台芸術の本流とは「別枠」とみなしがちだが、カニンガムの舞台はアイディアに富んでいて、こうした「障害者のダンス公演」というものを考えるうえで示唆的な作品だった。本作のベースになっているのは、ヒエロニムス・ボッスの絵画に描かれた障害者の図であるという。音楽にはバッハが用いられるなど、キリスト教的な色彩の濃い作品であることは間違いない。フライヤーに用いられたのも杖を持つ腕が横に伸びて「十字」に見える舞台写真だった。とはいえ、こうしたテーマに基づいて解釈しなくても、惹きつけられるダンス的要素が本作にはあった。それはひとつにカニンガムと松葉杖との「デュオ」の魅力としてあらわれていた。例えば冒頭、舞台の隅に身を傾けると器用に杖を両壁に突き立てて、バランスをとる。松葉杖と身体とのジョイントが緊張を引き出す。他にも、立てた二本の杖に身体を任せて、首を床に近づけたりする。そんなとき、カニンガムの身体の各部の間で微妙な拮抗のせめぎ合いが起きている。ゆっくりとした動作で、派手な見所があるというのではないのだが、そこには見過ごせない微弱な運動が確かに発生している。松葉杖+ダンスという試みと言えば、マリー・シュイナールの作品(『bODY_rEMIX/gOLDBERG_vARIATIONS』)を連想するのだけれど、シュイナールの場合、バリバリに踊れるダンサーが枷を与えられて、しかしそれゆえにさらに一層アクロバティックな運動を見せるのに対して、カニンガムの運動はそんなスペクタクルとは無縁だ。その代わり、松葉杖というパートナーとの長い付き合いを感じさせる道理のある動きがそうである分、未知のダンスに見えてくる。このダンスに近いのは、あえて言えば、舞踏だろう。あるシークェンスでは、衣装の一部を脱ぎ、松葉杖を置いたカニンガムは、下着一枚の状態ですっと立ち、じっと前を向く。ほとんど何もしていないかのような直立はしかし、微妙な動きを含んでいて、緊張を帯びている。ゆっくりとだが彼女は眼差しを右から左へまた左から右へ移動させていた。その間、弱いがはっきりとした呼吸音が舞台を包む。この音にぼくは室伏鴻を想起した。もちろん、カニンガムに室伏のような強烈さはない。とはいえ、室伏のそれに似て、吐く音、吸う音が観客の身体を揺さぶっている。暗黒舞踏の祖・土方巽はエッセイ「犬の静脈に嫉妬することから」(『美術手帖』1969年5月号)で「五体が満足でありながら、しかも、不具者でありたい、いっそのこと俺は不具者に生まれついていた方が良かったのだ、という願いを持つようになりますと、ようやく舞踏の第一歩が始まります。」と発言している。ただし、「不具者」はいまや、単なる踊りの霊感源ではなく、現実の肉体を自ら示す舞台上のパフォーマーとなっている。その転換こそ、新しいダンスの兆しになるのかもしれない。もちろん、このことはカニンガムの身体が動けばおのずと舞踏が生成されるなどといった単純な話ではない。カニンガムはしっかりとした方法論でダンスに挑んでいる。ぼくが記述したいくつかの例は、まさに彼女の技法といえるものだろう。それは舞踏とは異なり、イメージへのリアクションというより、アクションの微細な確認作業といったものだ。その真価はまだ筆者には未知数だ。と、筆者はあくまでもカニンガムを振付家として見た。もちろん、2020年を見据えた動きのひとつと捉える向きもあるだろう。しかし、そのような「政局」的な解釈から距離を置くことなしに、2020年以降に続く建設的なかたちは見えてこないだろう。

2017/02/04(土)(木村覚)

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