2018年07月15日号
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artscapeレビュー

鴻池朋子展 皮と針と糸と(根源的暴力 vol.3)

2017年03月01日号

会期:2016/12/17~2017/02/12

新潟県立万代島美術館[新潟県]

「根源的暴力」展(神奈川県民ホールギャラリー、2015)、そして「根源的暴力vol.2 あたらしいほね」(群馬県立近代美術館、2016)に続く、鴻池朋子の個展。基本的な構成は以前と同じだが、作品の見せ方を変えたり、新作を部分的に加えたり、その都度新たな一面を発見させる巡回展である。
今回新たに展示されていたのは、《テーブルランナー》(2016)。鴻池が東北の各地で展開しているプロジェクト「物語るテーブルランナー」から生まれた作品で、その土地で暮らす女性たちがかつて経験した逸話を鴻池が聞き取り、さらにそれぞれの話を絵に描き起こし、それらの下図をもとに当人を含む女性たちがテーブルランナーを縫うというものだ。漬物小屋の箪笥を開けるとたくさんのネズミが出てきた話や、人間の顔と同じくらいの大きさのカエルに出会った話、悪いことをして穴蔵に閉じ込められた話、あるいは学校帰りの子どもに向けて入れ歯を外して驚かせていたおじいさんの話。いずれも公の歴史として残るような物語ではないが、だからといってたんなる個人史として括るにはあまりにも惜しい、人間の欲動や情感と深く結びついた、ある種の民俗学的な物語である。それぞれのテーブルランナーには文字が縫い込まれているほか、傍らに語り手による「語り」が掲示されているため、鑑賞者はそれらの言葉を手がかりにしながら、その情景を思い浮かべ、その語り手の肉声や表情をありありと想像するのである。
美術の専門家と美術の非専門家との協働作業。この作品を、そうしたある種のコラボレーションとして考えることは、できなくはない。けれども、鴻池朋子の作品をそのような現代美術の専門用語で解釈したとしても、いかにも物足りない。それらは、人間の条件としては不可欠でありながら実体としては不可視である「人間の想像力」を正面から問うているからだ。
今回の展示で深く印象づけられたのは、表面のイメージである。《テーブルランナー》はもちろん水平面に置かれるものであるし、素焼き粘土に水彩絵具で着色した立体作品も底が浅く広い展示ケースに並べられたせいか、水平方向に果てしなく広がってゆくイメージが強い。牛革を支持体にした平面作品にしても、《皮緞帳》のように天井から吊り下げることで光の世界と闇の世界を切り分ける境界線として見せられている作品もあれば、《あたらしい皮膚》や《あたらしいほね》のように、何枚かの牛革をキャンバスに張って絵画というメディウムを強調した作品もあるが、いずれにせよ奥行きを欠いた表面であることにちがいはない。そして、何よりも本展のタイトル「皮と針と糸と」には、表面と表面を連結してゆくイメージがある。
ただ、ここでいう表面は2つに大別されうるように思う。ひとつは、《あたらしい皮膚》や《あたらしいほね》のような牛革をキャンバス状に仕立てた作品であり、もうひとつは《皮着物》や《白無垢》のような牛革を着物に仕立てた作品である。そのように大別しうると考えられるのは、後者が見る者の視線をどこまでも深く誘うのに対して、前者はむしろ見る者の視線を跳ね返すほど固く閉じていたように見えたからだ。事実、前者の表面には牛革を外側に伸ばす張力が漲っており、見る者の視線を拒むような緊張感が漂っていたが、後者の表面はむしろ柔らかく、不在の身体を想像させる着物という外形も手伝って、私たちの視線を包み込むような抱擁感があった。前者と後者は同じ空間に正対するかたちで展示されていたため、同じ牛革というメディウムを用いた作品でありながら、想像力の質が正反対であることを否応なく痛感させられたのである。
この著しい対照性は、いったい何を意味しているのか。むろん、絵画=現代美術を切り捨てる一方、民衆の想像力=創造力を持ち上げるという一面がないわけではない。だが、より本質的には、そのような想像力の二面性に同時に立ち会うことによって、私たち鑑賞者は現代美術や民俗学といった制度的分類を超えた、根源的な想像力をイメージしたのではなかったか。
そのことを如実に物語っていたのが、《着物 鳥》である。かたちとしては着物でありながら、一枚の絵画のように見える作品だ。中央に羽を広げて翔ぶ鳥のイメージを認められるが、その躯体には森や湖が描かれているため、まるで鳥の中に大自然が広がっているように見える。しかも、その鳥のイメージの背景は、本物の鳥の羽毛で埋め尽くされているため、地と図が反転しながら同一化する世界を垣間見たような気がするのだ。部分と全体が入れ替わりうるという点でいえば、フラクタル構造として考えることもできなくはない。だが、これこそ人間の根源的な想像力を体現した作品のように思われる。イメージは特定のかたちに拘束されているわけではなく、想像力によって解放することができるし、それらの内側と外側を反転させることすらできる。「根源的暴力」とは、じつのところ「根源的想像力」なのだ。

2017/01/27(金)(福住廉)

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