2018年10月15日号
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artscapeレビュー

美しければ美しいほど The more beautiful it becomes

2017年04月01日号

会期:2017/02/07~2017/04/09

原爆の図丸木美術館[埼玉県]

新進気鋭のインディペンデント・キュレーター、居原田遙による沖縄の「声」をテーマとした企画展。展示の中心は居原田と同じく沖縄県出身の嘉手苅志朗と埼玉県出身の川田淳の映像作品で、あわせて丸木位里・俊による《沖縄戦の図》を所蔵する佐喜眞美術館の館長、佐喜眞道夫が同作について解説した音声と、居原田と協力者の木村奈緒が沖縄の基地問題をめぐるさまざまな報道を検証したパネルも展示された。
会場には、じつにさまざまな「声」が反響していた。佐喜眞館長による語りは、とりわけ沖縄戦の実態を知らない若い世代や本土の人間の耳を傾けさせるには十分な迫力を伴っており、各種の報道を検証したパネルにしても、大手のマスメディアが伝えていない、しかしネット上には確かに残されている現場の生々しい状況が克明に浮き彫りになっている。そのなかには知っていると思っていたが、知らなかった情報も少なくない。音であれ文字であれ、沖縄からの、あるいは沖縄についての「声」を真摯に聴くことが求められているのである。
とはいえ、この企画展の骨子は沖縄と本土の非対称的な関係性を告発することにあるわけではない。本土の人間が沖縄の問題から目を背けていることは否定できない事実だとしても、その不誠実極まりない鈍感さを弾劾する沖縄本質主義と本展は一定の距離を保っている。なぜなら、本展における「声」とは、沖縄から本土に向けられた声というより、むしろ沖縄と本土の双方に通底しているはずの人間の想像力に強く訴えかける「声」だからだ。佐喜眞館長による語りを耳にしながらも、私たちはここで《沖縄戦の図》を目にすることはない。それゆえ不在の絵画に思いを馳せることを余儀なくされるのである。
嘉手苅の作品《interlude》は、沖縄在住のジャズシンガー、与世山澄子の顔だけをクローズアップで映したもの。自衛隊の基地の周囲を走行する車の中で、ジューン・クリスティによる同名曲を口ずさんでいるが、口元はフレームから外されているので、私たちの視線は彼女の鋭い眼光に注がれることになる。その顔を時折染めるオレンジ色は、基地に設置された外灯だろう。そこはかつて米軍基地だったというから、もしかしたら彼女が脳裏に浮かべているのは、戦後はアメリカに占領され、返還後は本土に支配されている沖縄の二重苦の歴史なのかもしれない。
嘉手苅の《interlude》が私たちの想像力を過去の歴史に誘っているとすれば、川田の新作《生き残る》は、より直接的に、私たちをそれに対峙させている。あわせて上映された川田の前作《終わらない過去》と同じく、《生き残る》もまた、ある種の語りを聴かせる映像だ。話しているのは、あの戦争で中国大陸に従軍し、後に沖縄でアメリカ兵と闘った元日本軍の兵士。絞り出すような声で語られる虐殺の経験や集団レイプの目撃談、同じ日本軍への呪詛などが、私たちの耳を切り裂きながら心底に暗い影を落とす。
だが、ここで私たちが覚える恐怖は、決して彼の証言の内容だけに由来しているだけではない。隣室に展示されている丸木夫妻の《南京虐殺の図》をおのずと連想してしまうことも小さくないだろう。けれども、それ以上に大きな要因は、《生き残る》が《終わらない過去》と同様に音声と映像を基本的には照応させていない点にある。《生き残る》が映し出しているのは、ほとんどが赤ん坊。寝返りを打ったり泣きわめいたり、赤ん坊の無邪気な身ぶりは、恐るべき戦争の記憶を物語る語り口と著しく対照的である。だが、赤ん坊であれ戦争の証言であれ、映像と音声が完全に照応していたら、私たちの想像力はそれほど刺激されることはなかったにちがいない。むしろ双方に大きな乖離があるからこそ、私たちの想像力はその間隙を縫うように躍動しながら映像と言葉の彼岸に向かうのである。
感覚の分断と再構成。あるいは視覚と聴覚の切断と想像力による再統合。嘉手苅と川田に共通する手法があるとすれば、それはおそらくこのように要約することができる。だが、それはアーティストの個人的で内在的な方法論というより、むしろ沖縄と本土の非対称性という外在的な条件から必然的に導き出された技術知ではなかったか。というのも、統合された感覚を自明視する思考のありようこそ、沖縄と本土の非対称的な関係性を疑うことなく再生産する身ぶりと通底しているように考えられるからだ。
通常、私たちが美術や映像を鑑賞するとき、視覚的な情報と聴覚的な情報を分解しながら受容することはほとんどない。例えばキュビスムにしても、どちらかと言えば分解というより再構成のほうに力点が置かれていたし、日本におけるキュビスムは、先ごろ埼玉県立近代美術館で催された同名の企画展が明示していたように、おおむね「様式」として消費することに終始したと言ってよい。
だが嘉手苅と川田は、その切断をおそらくは戦略的に試みることによって、私たちの感覚や認識に大きな裂け目を切り開くことをねらっている。いや、より直截に言い換えるならば、私たちの認識の前提や存在の条件をあえて攪乱することで、私たちの想像力を強引に起動させようとしているのではなかったか。なぜなら沖縄と本土の非対称的な関係性に想像力を誘導するには、そのようなある種の暴力性が必要不可欠であることを彼らは熟知しているからである。世界に解き放たれた想像力は、新たな統合を求めてさまよい続け、何かしらの結節点に意味を見出そうと、もがくほかない。
そのことをもっとも端的に示しているのが、《生き残る》のラストシーンである。沖縄で無残に犬死にしていった仲間たちを悔恨の涙とともに振り返る痛切な「声」は、私たちの耳では受け止めることができないほど、重い。だが、そのとき画面に映し出されているのは、床に転がった赤ん坊の顔。透明度の高い黒い眼球でこちらを見つめている。それが私たちの視線と交わったとき、その悲痛な「声」は、まるで受肉したかのような生々しさを伴って、私たちの心の底を勢いよく突き抜けていくのだ。それは過去と未来が同時に顕現した奇跡的な一瞬である。

2017/03/10(金)(福住廉)

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