2018年01月15日号
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artscapeレビュー

石田榮写真集「はたらくことは生きること─昭和30年前後の高知」出版記念写真展

2017年06月01日号

会期:2017/04/11~2017/04/28

コミュニケーションギャラリーふげん社[東京都]

アマチュア写真家、石田榮(1926- )の写真展。同名の写真集の出版記念展として、30点あまりの銀塩写真が展示された。写し出されているのは1950年代の労働の現場。いずれも、清々しく、瑞々しい写真である。
石田榮は高知県在住。会社員として勤務する傍ら、日曜日にカメラを携えながら、農村や漁村、石灰鉱山などに通い詰め、そこで労働する人々を写真に収めた。撮影者としての会社員と被写体としての肉体労働者。あるいは休日に趣味に走る者と休日でも労働に勤しむ者。石田の写真が、そのような非対称な関係性によって成り立っているのは事実だが、だからといって必ずしも画面にその歪な関係性が立ち現われているわけではないところが、石田写真の醍醐味である。むしろカメラの先の労働の現場との近しい距離感、ないしは親密性が溢れ出しているように見える。
だが、その親しみのある距離感とは、被写体としての労働者との個人的な信頼関係だけに由来するわけではなかろう。むろん、それもなくはなかっただろうが、大半を占めていたのは、むしろ自らとは異なる労働者への敬意ではなかったか。サラリーマンという労働形態とは異なる肉体労働を敬う身ぶりが、あのような清々しい写真を出現させたに違いない。なぜなら、石田がレンズを通して見ていたのは、労働の喜び、いや、肉体を駆使する労働がもたらす充実した快楽であるように思えてならないからだ。それが、石田の労働に決定的に欠落していたと想像できること、ひいては現代社会を生きる私たち自身の労働にも大きく欠損していることを思えば、石田の視線に含まれているのは彼らへの敬意とともに、ある種の羨望のまなざしでもあることがわかる。
それをノスタルジーと一蹴することは容易い。しかし石田の写真には単なるノスタルジーを超えて、近代以前と近代以後のあいだで生じた労働の質的変化が如実に表わされているのではなかったか。かつて鶴見俊輔が柳田国男を引用しながら言明したように、明治以降の工場式の生産様式は労働から歌を奪い、楽しみを奪った(鶴見俊輔『限界芸術論』)。「今日の労働には、歌を伴うことがもう不可能になっているのである」(柳田国男「鼻唄考」)。むろん石田の写真に歌が含まれていると断定することはできない。けれども農村漁村、あるいは石灰鉱山の労働者たちが鼻歌や作業歌を口にしながら肉体を酷使していたことは想像に難くない。歌を唄わないまでも、歌を唄うようなリズムを、労働者たちの所作から確かに感じ取ることができる。
労働の倍音としての遊び。それを回復することが、労働を取り戻すための第一歩となるのではないか。

2017/04/27(木)(福住廉)

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