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移動する物質─ニューギニア民族資料

2017年07月15日号

会期:2017/06/10~2017/07/02

京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA[京都府]

「物質」としての「移動」に着目する展覧会シリーズの第一弾。京都市立芸術大学芸術資料館は、学生の卒業作品や美術工芸に関する資料を収蔵する施設である。その中の特殊なコレクションのひとつとして、1969年に美術調査隊によって収集されたニューギニア民族資料がある。ニューギニア島北東部のセピック川流域の神像や仮面、土器を中心としたコレクションだ。本展では、「文化人類学的な資料展示」のフレームを裏切る、斬新な展示構成が行なわれた。
薄暗い会場には、木製のダクトが天井からL字型に伸び、川のせせらぎのような流水音が聴こえてくる。その周囲にライトに照らされて佇むのは、「引き出し」や「輸送用クレート」だ。観客は、引き出しを自由に開けて、中を覗いて見ることができる。その中には、キャプションが一切ないまま、祭礼的なオブジェや装飾の施された銛のようなモノだけが収められており、薄紙で包まれたままのものもある。現地での聞き取りを断片的に記したテクストや写真も添えられ、聞き取った話からは、精霊信仰が根付く一方で、西洋文化や消費社会の流入の影響が伺える。しかしそれらは束ねられて重なり合い、一部しか見えない。ここでは、名称、地域や部族、年代、素材、用途などの情報を一切与えず、かと言ってオブジェとしての造形性を審美的に眼差すよう要請するのでもなく、「引き出しを開けて見る」という期待感とともに、「モノを元の文脈から切り離し、運搬し、収集・保管する」という営みの次元それ自体を見せているのだ。


撮影:松見拓也
提供:京都市立芸術大学


さらに、2階の展示室では、床を貫いて1階から続くようにダクトが直立し、壁に取り付けられた「引き出し」を開けると、中は空っぽで、スピーカーからさまざまな音声が聴こえてくる。呪文と歌の中間のような節回しの声、笛や打楽器の掛け合いのリズム……単調な反復はトランスを誘い、ガヤガヤとした話し声や子どもの歓声といった環境音も混じる。これらの録音音声にもキャプションはなく、全ては見る者の想像に委ねられる。つまりここは、「民族資料」としてのモノの収集からは決定的にこぼれ落ちてしまう、踊りや歌といった身体化された所作や周囲の環境などの記録・採取不可能なもの、持ち出せなかったもの、失われたものについて想起を促す空間なのだ。「物質」がこちらに移動し、一方、「想像」があちらに飛ぶという、時空間の対流が起きる。


撮影:松見拓也
提供:京都市立芸術大学


祭祀や狩猟の道具といったモノは、一定の時空間的な限定を受ける「行為」の次元に属すが、収集・保管の対象となったとき、生きられた時間の持続と密度からは切断され、隔離される(これは、パフォーマンスに用いられたオブジェや残存物をどう「保存」するかという問題とも通底する)。それは単に物理的な移動ではなく、ミュージアムという制度内への質的な移動でもある。本展の展示形態は、ミュージアムの制度(元の文脈からの切断と、「遺体安置所」としての収集・保管場所)そのものを提示し、物理的な/制度内への「移動」が内包せざるをえない欠落や空白を示しながら、その間隙を補完的情報によって埋めて中立性・客観性を偽装するのではなく、生じた空白を想起のための空間へと転化していた。
ただし、とりわけ「民族資料」の場合、このように一切のキャプションなしで展示する手法には、賛否両論があるだろう。「他者の文化を知り、理解する」という文化人類学の根本的態度は、他者への不寛容と異文化の排除が進行する現在、ますます重要性を増している。一方で、本展のあり方は、散漫で「間違った」解釈や想像が産み出される危うさを引き受けつつ、「他者の文化を一方的に簒奪しない」という倫理的な振る舞いをも示しているのではないだろうか。そこに、ミュージアムの制度批判のみにとどまらない、本展の意義がある。

2017/06/10(土)(高嶋慈)

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