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シルヴィアーヌ・パジェス『欲望と誤解の舞踏 フランスが熱狂した日本のアヴァンギャルド』

2017年08月01日号

本書は、フランスが日本のアヴァンギャルドである舞踏をどう受容したのかを解き明かす。1978年、室伏鴻がカルロッタ池田と上演した『最後の楽園』と芦川羊子と田中泯のパフォーマンスによってフランスに「舞踏」が輸入され、引き続いて大野一雄や山海塾などの踊りが紹介されると、フランスにいわば舞踏ブームが起こった。このインパクトが今日の舞踏の世界的な広がりを生み出し、舞踏はもはや日本のものではなく、世界的な前衛芸術となった。本書はそうした舞踏を受容する流れが「誤解」に基づくものであったと説く。著者シルヴィーヌ・パジェスによれば、誤解の最たるものは舞踏を「ヒロシマ」に直結させる類いの言説であり、誤解としての受容の歴史が暴かれてゆく。その点は興味深いのであるが、舞踏とは何かを解く際に、パジェスは土方巽のテキストにほとんど触れない。このことが気になる。実は土方巽の舞踏をめぐるテキストは、サルトルやバタイユなど、フランス現代思想の影響が強く感じられるところがあり、日仏の思想的交流の歴史として語る余地のあるテーマでさえある。その点にパジェスの考察が向かうことはない。とても残念だ。そもそも日本において舞踏を学ぼうとするならば、研究者、批評家であれダンサーであれ、まずは土方のテキストに触れ、あの独特なうねるような文体に舞踏を見るものだ。何より「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」というメッセージに、自分なりの解釈を試みずして、舞踏にアクセスできたとは考えないだろう。その点で、日本において舞踏とは、踊りであると同時に土方の思想であり、言語との格闘の成果であった(どの舞踏家も自分の話術あるいは文体をもっているのもその証左といえよう)。そうした点を無視して、土方やその後の世代の言語的取り組みの厚みが「ヒロシマ」というイメージにすり替えられてしまった歴史が、「フランスの舞踏」史ということになるのだろうか。土方巽ら舞踏家のテキストの受容をめぐる考察が読みたかった。あるいはテキストの受容などほとんど起こらなかったのだろうか。巻末の参考文献表をみると、日本語の研究書、論文、批評文は掲載されていない。その無視と一種の驕りが、舞踏を受容する世界的な姿勢であるとするならば、出汁の効いていない蕎麦が「Soba」として異国の日本料理店で振舞われるように、誤解に満ち核心を欠いた「Buto」が、世を席巻することだろう。
ネガティヴなことを書いたが、本書はそもそもフランス舞踊史のなかで、舞踏がどのような影響を与えたのかを伝えるものであった。1980年代当時のフランスで、彼らが否定していた表現主義的で、身振りを重視したモダンダンスの価値を気付かせたのが舞踏だった、とパジェスは理解する。舞踏はかつての「幽霊の美学」を蘇らせた。なるほど、そうした舞踏の読み取りは、単に誤解と切り捨てることのできない、舞踏の潜在力を引き出す解釈と捉えるべきかもしれない。 パジェスはパリ第8大学舞踊学科准教授。本書は著者の博士論文(2009年)をベースにしている。


シルヴィアーヌ・パジェス『欲望と誤解の舞踏 フランスが熱狂した日本のアヴァンギャルド』(パトリック・ドゥヴォス監訳、北原まり子、宮川麻里子訳、慶應義塾大学出版会、2017)
Sylviane Pagès, Le butô en France, malentendus et fascination, Centre national de la danse, 2015

2017/07/25(火)(木村覚)

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