2018年07月15日号
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生誕120年 東郷青児展 抒情と美のひみつ

2017年10月15日号

会期:2017/09/16~2017/11/12

東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館[東京都]

ぼくが初めて知った日本の画家は、たぶん東郷青児だと思う。幼いころ東横線沿線に住んでいたので、たまに父親が自由が丘のモンブランの洋菓子を買ってきてくれたのだが、その包装紙をデザインしていたのが東郷青児だったからだ。星空にのっぺりした女性の姿が描かれたもので、多少絵心のあった母親の口から「トーゴーセージ」という名を聞いたように思う。もっとも子どもにとっては包装紙より中身のほうがはるかに重要だったが。ともあれ東郷青児という画家は、ぼくのなかでは最初はとても甘美な思い出とともにインプットされていた。それが長じて美術に興味を持つようになると、その甘美すぎる絵柄とは裏腹の二科会のドンとして君臨する「帝王」の顔がかいま見えてきて、すっかり興ざめしてしまう。その彼が大正時代にキュビスムや未来派のスタイルをいち早く導入した前衛画家であることを知るのは、ずっとあとのこと。そんなわけで、東郷青児はぼくのなかでは浮沈の激しい画家なのだ(考えてみれば藤田嗣治も岡本太郎もぼくのなかでは浮沈が激しい)。
展示は、18歳で開いた個展の出品作《コントラバスを弾く》や、19歳で第3回二科展に初入選した《パラソルさせる女》など、初期の清新な絵画に始まり、7年間のパリ生活を経て帰国後《超現実派の散歩》などの傑作をものしつつ、デザインや壁画などにも手を染め、いわゆる東郷スタイルが固まっていく戦後までを振り返るもの。陰影をのっぺり描く東郷独自のスタイルは、すでにパリ時代から始まっているようだが、その後デザインを手がけるようになって加速していったように感じる。戦後になるともはや少女のイラストと変わりなく、陳腐としかいいようがない。この評価の低落はだれの目にも明らかで、同展の出品点数を見ても、絵画に絞ると戦前の30年間(1915-45)が41点なのに対し、戦後の32年間(1946-78)は17点しかない(60年代以降に絞るとわずか3点)。年とともにいかに作品が衰退していったかがわかる。逆に戦後、東郷は二科会の再建に尽くし、長く会長として君臨。ハデな前夜祭を繰り広げたりタレント画家の作品を入選させたり、戦前の前衛精神はどこへやら、世間受けしそうなパフォーマンスばかりが目立つようになる。
まあそんなことはどうでもよくて、この展覧会でハッと目が止まったのは藤田嗣治との関係だ。この10歳ほど年上の先輩とは20年代のパリで出会ったようで、その後二人は二科展内部に前衛的な傾向の画家たちが立ち上げた九室会の顧問を務めたり、 髙島屋から水着のデザインを依頼されたり、百貨店の壁画を競作したりと、戦前は緊密な関係を続けた。同展にはふたりの合作といわれる《海山の幸》も出ている。さてここで疑問。戦時中、藤田が戦争画にのめり込んだことは知られているが、東郷は戦争画を描かなかったのだろうか。戦後、藤田は戦争責任を問われて日本を去ることになったが、東郷は逆に二科展を舞台に影響力を強めていく。その違いは、単に戦争画を描いたか描かなかったかの違いなのか。
東郷は支那事変後、明らかに弥勒菩薩像を意識した伝統回帰的な《舞》を制作しているが、戦争画は描いた形跡がない。カタログの年譜を見ると、1943年「第2回大東亜戦争美術展・第九室に《出發》を招待出品」とあるが、どんな作品だったのかわからない。また戦後には飢えた母子を描いた《渇》と題する珍しい作品もあるが、基本的に戦前も戦後もほぼ一貫して洋風の女性像を描き続けたようで、戦争による大きな断絶はなさそうだ。考えられるのは、東郷は甘美な女性像を得意とする画家だったため軍からの依頼が来なかったのではないか。それに対して藤田も20年代は「乳白色の肌」で知られた画家だったが、30年代に入ると人気に陰りが見えてきたため、みずから進んで従軍し、戦争画の制作で起死回生を図ったのかもしれない。二科展の前夜祭などを見ると東郷も相当のお調子者だったことがうかがえるが、おそらく歴史に名を残そうとする野心と、ヌードの女性像も凄惨な戦争画も敬虔なフレスコ画も描き分けてしまう技量において、藤田にはおよばなかったに違いない。

2017/09/15(金)(村田真)

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