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戦後の蘭字─アフリカと中東へ輸出された日本茶─

2017年11月01日号

会期:2017/10/07~2017/12/10

フェルケール博物館[静岡県]

工業化以前、茶は生糸に次いで明治期日本の主要輸出品であった。「蘭字(らんじ)」とは、輸出茶の梱包に貼られた商標のことである。開港当初、静岡の茶は横浜で加工されて海外へ輸出されたが、明治32年に清水港が開港場に指定され、1906年(明治39年)に茶の輸出が開始されると、茶の再製加工、輸出の中心は静岡に移り、横浜で行なわれていた蘭字の印刷も静岡で行なわれるようになった。明治期には浮世絵の技術を用いて木版で摺られていた蘭字だが、大正から昭和初期にはオフセット印刷によるものも登場。戦後、茶輸出が衰退する1965年ごろ(昭和30年代)まで制作されていた。フェルケール博物館では、これまでにも常葉大学元教授の井手暢子氏の研究を元にして、主に明治期の蘭字を紹介する展覧会が企画されてきたが、2015年秋に開催された展覧会前後に日本紅茶株式会社および富士製茶株式会社の戦後の蘭字が多数発見、寄贈され、輸出茶商標の研究がさらに進みつつある。今回の展覧会は、これら新発見の戦後の蘭字に焦点を当て、その一端を紹介するものだ。
戦前期までの蘭字と、戦後期の蘭字の違いはなにか。印刷方式についてはすでに戦前からオフセット印刷が用いられている。展示品にはフルカラー印刷のものも見受けられるが、数色の特色版を用いているものも多い。特色版でもグラデーションに網点を用いているものもあれば、線画の密度で濃淡を表現しているものもある。大きな違いは図案だ。「蘭字」とは字義通りならばオランダ語のことだが、欧文一般を指す。日本茶は主に北米に輸出されていたために、茶商標としての蘭字には図案と英語によるブランド表記が行なわれていた。しかし、戦後は北米向け輸出が減少し、フランス領北アフリカに比重が移る。それに伴って言語はフランス語あるいはアラビア語が用いられるようになった。図案にはアラブ人の姿やエジプトの風景、動物などが描かれ、日本をイメージさせる意匠はほとんどない。それどころか、JAPANあるいはJAPONの文字をほとんど見ることができない。吉野亜湖氏の論考によれば、戦後北アフリカ市場で日本茶が受け入れられたのは日本の人件費が安く、低価格であったため。しかし日本茶は品質が悪いと評価されていて中国茶の水増しに用いられていたために、日本産であることを主張する必要がなかったのだという(本展図録、72頁)。また本展にはデザインがフランスの商社から支給されていたことを示す史料も出品されている。
10月21日に開催された同展関連シンポジウムでは、経済史、広告・マーケティング史、印刷史、デザイン史など、さまざまな視野からの報告と討論が行われ、蘭字デザインの研究は逆にそれらの歴史分野を補完する役割があるだろうことが示された。とくに興味深かったのは、ロバート・ヘリヤ氏の報告だ。ヘリヤ氏は、1869年(明治2年)に創業した日本茶輸出商社ヘリヤ商会の創業者、フレデリック・ヘリヤ氏の子孫で、現在はウェイク・フォレスト大学の准教授。報告は蘭字や広告を通じてアメリカにおける日本茶のマーケティングの様相を追うもので、19世紀末の日本の輸出茶が北米市場においてブランド力を持っていたこと、同時期にインド、セイロン茶がアメリカにおいて日本茶や中国茶に対してネガティブ・キャンペーンを展開していたことなどが示された。シンポジウムにおいて今回の展示の中心である戦後の蘭字についてはほとんど言及がなかったが、史料が発見されたばかりであり、貿易史料などと照合することで、これからより具体的な市場とデザインの関係が見えてくるだろうことを期待する。[新川徳彦]


会場風景

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2017/10/21(土)(SYNK)

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