2018年06月15日号
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artscapeレビュー

没後40年 熊谷守一 生きるよろこび

2018年02月01日号

会期:2017/12/01~2018/03/21

東京国立近代美術館[東京都]

熊谷守一というと素朴な色と形の絵で人気があるが、そのシンプルな作風もさることながら、ザンギリ頭に白くて長いあごひげ、作務衣みたいな着物(カルサンというらしい)の飄々とした姿、「へたも絵のうち」のキャッチフレーズも相まって、いかにも世俗を超えた仙人のようなイメージを増幅させている。ぼくがその存在を知ったときにはすでに90歳を超えた高齢で、雲の上の人だった。ただしそれは70歳以上も年上の超俗老人だからであって、作品には憧れはなかったし、どうも好きになれなかった。それはいまあらためて考えてみると、形の簡略化が中途半端に感じられたからであり(当時はミニマルアートに憧れていた)、色彩が地味で日本的な暗さを嗅ぎ取ったからだと思う。果たしていま見ても同じように感じるだろうか? 若干コワイもの見たさ的な気分もあって見に行った。

初期のころの絵は、ひとことでいえば暗い。色も暗いが、テーマも暗い。ローソク1本のかすかな明かりのなかで描いた《蝋燭》など、もともと暗い上に絵具が黒変してわずかに顔が判別できるくらい。きわめつけは《轢死》で、電車に轢かれて横たわる女性を描いたらしいのだが、画面全体が暗褐色で具体的な形はまったく判別できないのだ。もう「闇夜のカラス」状態。いくら熊谷守一の作品だからといって、いくら衝撃的なモチーフが描かれていたからといって、こんな真っ暗な画面を美術館で見せていいものか。あるいは一種の抽象絵画として見るべきか。その後、画面は徐々に明るくなり、タッチは荒々しい表現主義的になり、モチーフもヌードと風景に絞られていく。が、次男が亡くなったときはその死に顔を素早く描き止めた《陽の死んだ日》を残している。戦後も長女の死に顔《萬の像》や、その遺骨を抱えた家族の肖像《ヤキバノカエリ》を制作するなど、意外にもその長い画業には死がときおり顔を出す。

熊谷を特徴づける赤茶色の輪郭線が表われるのは1930年ごろから。また、よく知られる平坦な色面によるシンプルな画面は40年代からで、そのころすでに還暦を超えている。不謹慎なことをいえば、もし空襲など戦渦に巻き込まれて亡くなっていたら、名もない画家のひとりで終わっていたに違いない。つまり熊谷が画家・熊谷守一になるのはじつに70歳近くになってからなのだ。出品リストを見ると油彩だけで200点も出ているが、うち4分の3は戦後、つまり60歳代後半以降の作品で占められている。これほど遅咲きの画家もめったにいない。ちなみに戦時中はなにをしていたかというと、もちろん出兵するには高齢すぎるし、画家としてもすでに引退を考えてもいい年だったので(なにしろ東京美術学校では青木繁と同級生)、戦争画も描かなかった(依頼がなかったのか?)。ではなにを描いていたのかというと、さすがにヌードは描けなかったのか、風景が多かった。とはいえほとんど人のいない不穏な風景画ばかりで、逆に戦争の時代だったことを予感させる。

後半の100点以上の大半は10号以下の小品で、しかも陳腐なガラスつきの額縁に入っているため、ズラッと並んださまはまるで売り絵のようだ。書や彫刻も出ている。書は軸装で、「無」「ほとけさま」「からす」などちょっとトボケた味を出していて、相田みつをを彷彿させる。彫刻も長さ20センチ程度の小品で、モチーフは横たわるヌードだが、なにか違和感があるのは、こんなちっちゃな彫刻なのに台座がついてるからだろう。どうも熊谷は額縁や台座抜きに絵画・彫刻は考えられなかったのではないか。そこがミニマルアートはおろか、抽象以前の旧世代の画家たるゆえんだろう。そんなわけで後半のシンプルな絵にはやっぱり惹かれないが、初期の「暗い絵」には少し心を動かされるものがあった。

2017/12/01(金)(村田真)

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