2018年12月01日号
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artscapeレビュー

市原佐都子/Q『妖精の問題』

2018年12月01日号

会期:2018/10/25~2018/10/28

京都芸術センター[京都府]

KYOTO EXPERIMENT 2018の充実したプログラムのなかでも、そのエネルギッシュさと社会批評のメッセージ性の強さが際立っていた本作。3部構成からなり、1部「ブス」が落語、2部「ゴキブリ」がミュージカル風の歌唱、3部「マングルト」が健康法の啓発セミナーとそれぞれ異なる形式で上演され、俳優の竹中香子がほぼ一人芝居で演じ切る。各パートの主題となるモチーフは異なるものの、通底するのは「見えないことにされるもの」、つまり美醜、社会的有用性、清潔/不潔といった価値基準によって社会から差別・排除・嫌悪される対象だ。だが3つのパートが3本の矢のように撚り合わされることで、最終的には価値基準が相対化され、生の強い肯定へと転じていく。

冒頭、下半身はオムツという衝撃的な姿で登場した竹中は、客席にフランクに語りかける。普段はフランスに住んでいること、東京の満員電車に乗ると容姿や振る舞いが皆似ていると感じること、それは群れとして平均化されることに適応/淘汰された結果であること。この「マクラ」で既に、「集団の均質化と疎外」「人間を生物種として(疑似)科学的に分析する視線」が示される。竹中は高座に上り、(表面的には)2人の女子中学生の会話からなる「新作落語『ブス』」が始まる。「整形して銀座で働いて稼ぎたい」と言う楽天的な片方と、「ブスは疾患だから、人類全体のために子孫を残しちゃダメ」と言う悲観的なもう片方。対照的な2者の会話のなかに、(女性の)美醜が絶対的な価値基準として君臨する世界と、「ブスは絶滅危惧種」「突然変異」など人間を生物種として相対化するような脱人間中心的な視点が交錯する。



市原佐都子/Q『妖精の問題』2018 京都芸術センター
[撮影:前谷開 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

2人の掛け合いに挿入されるのが、「不自然撲滅党」の女性政治家による政見放送と街頭演説だ。「自力で食事や排泄ができない老人は生物として不自然だから死ぬべき」「突出した天才よりも平均を保護せよ」と訴える政治家。それは、近未来のフィクションの姿を借りて、均質化の圧力、社会的有用性という価値基準、異物の排除が公然と主張される社会をあぶり出す(本作は2016年の相模原障害者施設殺傷事件を契機とし、2017年に初演されたが、LGBTをめぐる杉田水脈議員の論文問題も予見させる)。さらに、表面的には「女子中学生2人の会話」が、極端に表情を歪め、身体を硬直させ、吃音を交えて発声されることで、「排除の対象」として「障害者」も暗示されている。だが終盤、女子中学生の台詞は「女性器は普通の子と同じ」「自分の子を産みたい」「生まれたってことは生きてていいんだ」という肯定へと転じていく。「交尾したい」とのたうちながら全身で叫ぶ竹中の身体は、圧倒的なカタルシスとともに、「生存の剥奪」への徹底的な抵抗を示す。

続く2部「ゴキブリ」では一転して、竹中はスタンドマイクの前に立ち、ピアノの生伴奏をバックに、ジャズ風の曲にのせてある夫婦の物語を歌い上げる。豚骨ラーメン屋が近所にあり、部屋に出るゴキブリを駆除する毎日。夫との「交尾」の間に頭によぎる、ゴキブリの繁殖力の強さ。夫が焚いたバルサンの煙を妊娠中に吸ってしまったこと。産まれた子は「見えない存在」として、少女たちのバレエの発表会を「妖精」のように守ってくれていると彼女は語る。



市原佐都子/Q『妖精の問題』2018 京都芸術センター
[撮影:前谷開 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

そして3部「マングルト」では、「膣内に常在する乳酸菌を利用して作ったヨーグルトを食べる」という健康法の啓発セミナーが展開される。女性器と菌という、「見えないもの」とされるタブーの対象が重ね合わせられ、撲滅ではなく「菌との共存」によって健康が保たれると説く。創始者の「淑子先生」が映像で登場し、性や自分の身体について語ることが「汚いもの」として憚られた少女時代、極端な「殺菌」思想、抗生物質により善玉菌を殺したことで体内バランスが崩れたこと、そこから「菌との共生」に思考を転換したという自伝が語られ、「マングルト」の「試食」も間に挟む(この「試食」は、(男性)観客の「生理的拒絶感」をより自覚させる仕掛けとしても機能する)。



市原佐都子/Q『妖精の問題』2018 京都芸術センター
[撮影:前谷開 提供:KYOTO EXPERIMENT事務局]

排除や差別、嫌悪の対象が、「基準」から外れた人間から誰もが忌み嫌う害虫へと移り、最終的には体内の菌との「共存」へ。本作はそうした段階的推移を提示する。菌すなわち異物を排除せず包摂するのが、女性器である点も極めて象徴的だ。また、俳優が観客に向かって一人語りを続ける「モノローグ」という作劇手法の虚構性を、「落語」「歌謡ショー」「啓発セミナー」という別の形式に置換することで、その「不自然さ」をクリアしてみせる手つきは、「演劇形式」に対する批評的態度としても鮮やかに機能している。

だからこそ、「3つのパート」の「終了」後(「これで今日のセミナー(=演劇の上演)を終わります」というメタ台詞が宣言される)、不自然さの印象を与える「空白の間」を挟んで登場する、年老いた女性が放つ「モノローグ」の特異さが際立つ。弱々しい力を振り絞るように、あるいは別の存在の声を巫女的に語るように、奇妙に引き伸ばされて抑揚を欠いた発声。その姿は劇中の映像で登場した「淑子先生」だが、既に故人であることが語られていたように、死者、あるいは超越的な存在の声だろう。その声は、死んだら身体は別の生物の栄養となって物質的に循環していくこと、地球全体をひとつの身体とすると人間はその表面に巣くう菌類に等しいことを告げる。人間をひとつの生物種として俯瞰する視線の下、竹中の渾身の演技の力も相まって、「善/悪、清潔/不潔、美/醜、有用/不要といった価値基準を超越した、ただ生命として存在すること、生きることの全肯定」というメッセージが強いインパクトを持って刻みつけられた作品だった。

公式サイト:https://kyoto-ex.jp/2018/

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