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千葉雅也『意味がない無意味』

2019年02月15日号

発行所:河出書房新社

発行日:2018/10/30

哲学者・千葉雅也による初の評論集。デビュー作である『動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2013)にまとめられたドゥルーズ研究を除く、大小さまざまな論考が本書には収められている。その対象は美術、文学、建築から食やプロレスにいたるまで、じつに多様である。

著者は本書の序において、2016年までをみずからの仕事の「第一期」と総括する。博士論文を元にした『動きすぎてはいけない』をはじめ、著者はこの間『別のしかたで』(2014)、『勉強の哲学』(2017)、『メイキング・オブ・勉強の哲学』(2018)といった一般書、さらにはドゥルーズ以外を対象とする哲学論文や、広義の表象文化論に属する多彩なテクストを切れ目なく発表しつづけてきた。そのうち対話として残されたものは、同じく昨年刊行された『思弁的実在論と現代について──千葉雅也対談集』(青土社)にまとめられている。対する本書は、これまで書籍や雑誌に掲載された硬軟さまざまな論考から、選り抜きの23篇を集成したものだ。

本書の目次を一瞥してまず驚かされるのは、その多彩なトポスである。視覚芸術に限ってみても、フランシス・ベーコン、田幡浩一、森村泰昌、金子國義、クリスチャン・ラッセン……という並びは、「美術批評」に対してなんらかの予断をもつ者であれば、少なからず意表を突かれるものだろう。また、構成も特筆すべきである。凡庸な書き手ならば往々にしてジャンルで章を区切りがちなところを、本書は「身体」「儀礼」「他者」「言語」「分身」「性」という6つのテーマを設定し、それに即して先の23篇を按配する。これにより、ギャル男と金子國義(Ⅱ「儀礼」)、ラッセンと思弁的実在論(Ⅲ「他者」)、ラーメンと村上春樹(V「分身」)といった、通常であれば縁遠い(?)はずの対象が、奇妙な仕方で隣り合う。むろん、この構成が単に奇を衒ったものでなく、著者自身の一貫した関心を──あくまで事後的に──浮かび上がらせるものであることは、一読して理解されよう。

評者自身は、本書に収められたテクストのほぼすべてを初出で読んでいる。それゆえ、まずはこれらがあらためて一冊の単行本にまとめられたことを喜びたい(それは、これら珠玉のテクストが新たな読者を獲得するとともに、広く引用可能性に開かれていくことを意味する)。個人的な回想を挟ませてもらえば、本書に収められたもっとも古いテクストである「動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと節約」(2005)を、『Résonances』という学生論文集のなかに見つけたときの鮮烈な印象を、評者は今でもありありと思い出すことができる。のちの同名の著書を知る現在の読者は、その10年前に著されたこの短いテクストの存在により、著者の問いの驚くべき一貫性を目の当たりにすることになるだろう。そして、この10年余りの「第一期」の仕事を特徴づけるべく選ばれたキーワードこそが、表題の「意味がない無意味」なのである(本書序論「意味がない無意味──あるいは自明性の過剰」)。〈意味がある無意味〉から〈意味がない無意味〉へ、思考から身体へ、そして〈穴−秘密〉から〈石−秘密〉へ──それが、本書に与えられた輪郭ないしプログラムである。

以上の話に付け加えるなら、時期や媒体に応じて少なからぬ偏差を見せる、各テクストの「造形性」に目を向けてみるのもまた一興だろう。千葉雅也の読者は、その明晰かつ強靭な内容もさることながら、ルビや傍点をふんだんに駆使した独特な文体にいつであれ目を引かれるはずである。つねに明快な論理構造に独特のニュアンスを付与するその半−視覚的な言語実験は、「修辞性」というより、やはり「造形性」と呼ぶにふさわしい。その複雑な滋味を味わううえでも、アンソロジーの体裁を取った本書は好適である。

2019/02/01(金)(星野太)

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